【F1】雨のモナコ 12年周期で英雄が誕生する説

本日はセナが亡くなって26年目の命日です。

 

そこでというわけでもないですが、彼が輝くレースを見せた「雨のモナコ」に焦点を当てた内容を書いてみようと思いました。

 

題して「雨のモナコ12年周期の英雄」ジンクス

 

1984年以降、12年周期でモナコでは雨のレースで若手が輝くということが続いています。

 

残念ながら、その12年周期に当たる今年のモナコGPは中止になってしまいましたが、過去のそのジンクスに該当するドライバーを振り返ってみようと思います。

 

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1. 1984年:ルーキーによる幻の優勝と表彰台

アイルトン・セナ(トールマン)

 予選13位→決勝2位

ステファン・ベロフ(ティレル

 予選20位→決勝失格(3位)

 

 

今なおアイルトン・セナの「幻の1勝目」と語り継がれる、豪雨の中行われた1984年のモナコ

 

レースは予選1位のアラン・プロストマクラーレン)と2位ナイジェル・マンセルロータス)による首位争いで進行していく。

 

豪雨に足をすくわれリタイアする車が続出する中、一時は首位に立ったマンセルもスピンを喫しリタイアしてしまう。

 

そんな中、中堅クラスのチームであるトールマンが雨を切り裂くようにトップのプロストに近づいていた。

 

その年F1デビューしたばかりのセナだった。

 

しかしレースは32周目に赤旗が振られ、その前の周で結果が出ることとなった。セナは32周目にプロストオーバーテイクし、勝者となるはずだった。

 

 

このレースではもう一人、予選最後尾から不気味に追い上げる黒い車を駆る男がいた。

 

それが、ステファン・ベロフという若きドイツ人だった。

 

その年数少ないNAエンジンを搭載する非力なティレルは、30周の間にセナの駆る真っ白なトールマンの後ろまで追いついていたのだった。

 

しかし悲しいかな、そのリザルトは正式には「失格」となってしまった。チームのレギュレーション違反によるものだった。

 

そんな彼はその後もF1、そしてすでに活躍をみせていたスポーツカー耐久レースで速さを見せると思われていたが、この翌年の世界耐久選手権で事故死してしまう。

 

 

2. 1996年:フランス人がフランスチームでモナコを初制覇

オリビエ・パニス(リジェ)

 予選14位→決勝1位

 

94年にフランスの名門チームであるリジェからデビューしたパニスは、95年までにすでに2度の表彰台を獲る実力を持っていたが、チームの実力なのか優勝を争える場所には届かなかった。

 

そんな中96年のモナコを迎える。

 

開幕以降シングルフィニッシュを3回達成しているものの、入賞は6位一回。予選も奮わず14位だった。

 

しかし、スタート前の雨が乾かぬモンテカルロは1周目から荒れた様相を見せる。

 

フェルスタッペン、シューマッハバリチェロフィジケラ、ラミーが立て続けに消えると、その後もリタイアが続出。

 

パニスは後方スタートだったことから燃料を多く積み、ピット時間を短くする戦略をとって4位までポジションを上げていた。

 

アーバインを追い抜き、前を走るヒルエンジンブロー、アレジはサスペンショントラブルでストップし、42周目についに首位に浮上する。

 

その後レースは2時間ルールの適用で75周で終了。パニスは勝利した。

 

このレースは当時リジェのエンジンサプライヤーであった無限ホンダにとって初勝利であり、リジェとしても1981年以来の勝利であった。

 

そのパニスは翌年、プロスト・グランプリと改称されたチームで序盤戦を選手権争いに絡む活躍をみせたものの、第7戦カナダでクラッシュ。両足を骨折し、シーズンを棒に振ってしまう。

 

その後は戦闘力のある車に恵まれず、2004年のトヨタを最後にレギュラーシートから退いた。

 

3. 2008年:雨のモナコに見た、チーム初入賞の夢

エイドリアン・スーティル(フォースインディア)

 予選19位→決勝リタイア(一時4位走行)

 

2007年にスパイカーからデビューしたスーティルは、雨の日本GPで自身初、チームにとって唯一の入賞を果たすと、翌年フォースインディアと改称したチームに引き続き残留した。

 

昨年型がベースとなる車は速さを発揮できず、シーズンを通してテールエンダーであったが、モナコでは思わぬ好走を見せる。

 

雨が降りしきるモンテカルロ。2度のセーフティーカーが出たときに4位にいたのはスーティルだった。チーム初の入賞、もしかすると表彰台も……。なんて希望は、タイトル争いをしながらもこのレースで波に乗れないライコネンにより砕かれた。

 

リスタート直後、トンネルの出口で追突されそのチャンスは不意に終わりを告げた。

 

……といっても、実は黄旗無視でペナルティが下る予定だったので入賞は難しかったというオチもあるが。

 

さて、実はこのレースにはスーティルと同じく2年目でひっそり活躍したドライバーがいたのだ。

 

セバスチャン・ベッテルトロロッソ

 予選18位→決勝5位

 

2007年にスポット参戦で最年少出走&最年少入賞を達成したドイツ人は、この雨のモナコで後方スタートから見事な追い上げを見せ入賞を果たしていた。

 

この頃のベッテルは雨のレースで特に光る走りを見せ(2007年日本GPはのちのチームメイトであるウェバーに追突したが、それまでは3位)

 

自身2度目の入賞は雨の中国で4位、3度目の入賞がこの予選18位から5位入賞のモナコだった。

 

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さて、一通り列挙してみましたが少し無理のあるジンクスでもあるかなぁとも思います。

 

ですが何かとこじつけて見たくなってしまうもので。

 

また何かジンクス的なものに気が付いたら書いてみたいなぁと思います。

 

 

【F1】チャンピオンになるドライバーはどのGPで勝つのか【続、ジンクス検証】

前回、『開幕戦勝者がその年のチャンピオンになる説』を検証してみましたが、結果的には約半々という結果が出ました。

 

詳細は下記より

ksk-kagami.hatenablog.com

 

さて、では開幕戦勝者のジンクスが結果的に半々だとしたら

 

その年のチャンピオンは開幕戦以外のどのGPで勝つことが多いのでしょうか。

 

 

過去20年分のチャンピオンが勝ったGPをピックアップしてみた!

 

というわけで、調べてみました。

 

今回は2000年以降の過去20年で調べてみます。

 

というのも、過去70年分をやってしまえば伝統的に開催している国の登場回数が高くなり、不公平かな?と思ったからです。

 

まぁ、比率で計算すればという話もありますが、面倒だったので…(本音)

 

とりあえずこんな感じです

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過去20年でチャンピオンが勝ってるGP

過去20年のチャンピオンが13度勝ってるGPがあった!

 

とても見づらい……。

 

一応、一部複数あげられているGPを色分けしてみたのですが、そうすると過去20年の中で複数勝者が出ているGPが以下のように出てきました。

 

日本:13回

オーストラリア:11回

スペイン:11回

バーレーン:10回

カナダ:9回

イタリア:9回

マレーシア:9回

イギリス:9回

ベルギー:8回

中国:8回

 

以上にあげたのが上位GPです。

 

なんと、日本GPはその年のチャンピオンの2/3が勝っている結果となりました。

 

特定の10GPを制した数が多い方がチャンピオン?

 

これでチャンピオンは日本GPを勝っている可能性が高い、という結果にはなりましたが、もちろん必ずチャンピオンになれるわけではないのも事実です。

 

そこでもう一つ調べてみました。

 

『シーズン中、この上位10GPでの勝利数が多い方がチャンピオン』ってことはないだろうか?

 

例えば最終戦までタイトル争いが縺れたシーズンを幾つか検証してみよう。

 

2003年

 

ミハエル・シューマッハキミ・ライコネンが最終戦までタイトルを争い、最終的に2ポイント差でミハエル・シューマッハがタイトルを獲得しましたが、上記10GPの勝利数ではどういう違いが出るのでしょうか。

 

ミハエル・シューマッハ

スペイン、カナダ、イタリアの計3勝

 

キミ・ライコネン

マレーシアの1勝

 

…そもそもこの年はライコネンが1勝しか挙げて無かった…。

 

2010年

 

セバスチャン・ベッテルが初タイトルのこの年。最終戦では4人がタイトルの権利を有していました。

 

セバスチャン・ベッテル

マレーシア、日本の計2勝

 

フェルナンド・アロンソ

バーレーン、イタリアの計2勝

 

マーク・ウェバー

スペイン、イギリスの計2勝

 

ルイス・ハミルトン

カナダ、ベルギーの計2勝

 

ジェンソン・バトン

オーストラリア、中国の計2勝

 

…うわぁ、上位5人に見事にばらけてしまった。

 

結果:この10GPを多く獲ったドライバーがチャンピオン(?)

 

さて、早々に結論を言うと(まだ全てで検証したわけではないので)

 

先ほどあげた10GP

 

日本、オーストラリア、スペイン、バーレーン、カナダ、イタリア、マレーシア、イギリス、ベルギー、中国

 

をより多く勝った方がチャンピオンになる傾向が強いように感じました。

 

特に、例には出しませんでしたが2016年のロズベルグがタイトルを獲った時は全体的にはロズベルグ9勝に対しハミルトンは10勝。

 

ですが、例の10GPで比較すると

 

ロズベルグ

オーストラリア、バーレーン、中国、ベルギー、イタリア、日本の計6勝

 

ハミルトン:

カナダ、イギリスの計2勝

 

と、大きな違いが出ています。

 

……といっても、なんとなくそんな傾向がある、くらいのものなので頭の片隅にでも入れておくと面白いかもね、くらいで。

 

(仮に10GPで勝てても残りがリタイアなら意味はないですし)

 

この検証も時間をかけてきっちりやったわけではないので。

 

信じるか信じないかはあなた次第です(笑)

 

<終劇!>

【F1】開幕戦勝者がその年のチャンピオンになる説【ジンクス検証】

 

世の中にはいろいろなジンクスがあると思います。

 

F1の世界にも様々なジンクスがありますが、今回はその一つ。

 

『開幕戦勝者がその年のチャンピオンになる』

 

というものを検証していこうと思います。

 

◆開幕戦で勝ったドライバーがシーズンを制する?

 

まことしやかに囁かれているこのジンクス。

 

ここ数年では当てはまっていないので、最近F1に興味を持った人には疑問かもしれません。

 

ですが、1990~2000年代から見ている人からすると、そんなこと言ってたなと思うかもしれません。

 

自分はまさに2000年代から観戦組なので、この話題はちょくちょくあった気がしています。

 

でも、細かく検証したことないんですよね。

 

開幕戦も大幅に延期となったこの際に、せっかくなので検証してみようと思います。

 

◆とりあえず過去70年分の開幕戦勝者とチャンピオンを表にしたぞ!

 

と、いうわけでいつも通りエクセルで表にしました。

 

画像ですが以下のとおり。

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1950年~2019年までの開幕戦勝者とチャンピオンの一覧

 

画像の赤背景が開幕戦勝者とチャンピオンが一致している年です。

 

……こうやってみると、結構マチマチですね。

 

ですが、1990~2000年代はかなりの頻度で開幕戦勝者がチャンピオンになっていることがわかります。

 

◆「開幕戦」というくくりなら5割以下。だが......。

 

では開幕戦勝者がチャンピオンを獲っているのは70年の内何度なのか。

 

34回

 

つまり、だいたい5割を下回るくらいというところです。

 

ココだけ見ると、どうやらこのジンクスはあまりあてにならなそうです。

 

......が、

 

例えばこれが「サーキットごと」だとどうなるのか。

 

モナコザントフォールト開幕なら......!

 

現在、最多で開幕戦という立場を担っているアルバート・パークサーキットならば

 

23回中13回チャンピオンを輩出しています。

 

なんと57%。

 

さらに、1度しか行われていないモナコ開幕やオランダ(ザントフォールト)開幕の年は、開幕戦がそのままチャンピオンになっているので100%となります。

 

◆結論

 

さて、トータルでこの説の結論を申し上げると。

 

「あまり当てにはならなそう。でも可能性は高い」

 

という感じでしょうか。

 

 ……では、「チャンピオンになるドライバーはどのGPで勝つのか」

 

ふと、そんな疑問がよぎります。

 

……それは、また次回にでも。

 

<終劇!>

【F1】10年毎の勝利者数について調べてみた【1950-70年代編】

今年の初めに、F1公式ツイッターのツイートから思い立って作った記事「10年毎の勝率について調べてみた」ですが

 

 

日本人に親しみのある1980年代からの内容だったので、今回はさらに以前の1950年代からのデータを作ってみました。

 

▾前回の記事

ksk-kagami.hatenablog.com

 

◆1950年代

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1950年代の優勝者と勝率

FIAフォーミュラ1世界選手権として最初の10年が1950年代です。

 

この年は10年間で84レースが開催されましたが、現在との違いは「インディ500」が選手権に組み込まれていることです。

 

もう一つは、表中の注意書きにも記載しましたが、乗り継ぎが可能だった時代だということです。

 

(Aドライバーがマシントラブルでストップしても、BもしくはCドライバーのマシンに乗り換えて走ることが出来た)

 

その結果「インディ500」のみの勝者も多く、10年間で勝者は25名が登場します。

 

この10年で最多勝を誇っているのは、ミハエル・シューマッハが破るまで最多タイトル記録を保持していた「ファン・マヌエル・ファンジオ」で24勝を記録しています。

 

◆1960年代

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1960年代の優勝者と勝率

1960年を最後にインディ500F1世界選手権を離れ、60年代全体としては100レースが開催されました。

 

この時代にはイギリス人しか優勝者がいないシーズン(1963年)があったりします。

 

この10年間では21人の優勝者が登場しました。

 

最多勝ジム・クラークで25勝。四分の一を勝ってる計算となります。

 

◆1970年代

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1970年代の優勝者と勝率

1970年代、日本人にとってはF1インジャパンが開催された時代となります。

 

実は10年毎に区切ってみると、1970年代が一番10年間の内の優勝者数が多く、144レースを行い29人が優勝しています。

 

この10年間では勝率ではジャッキー・スチュワートが16勝をあげています。

 

≪いくつかの比較≫

・1970年代:29人 vs 2010年代:12人

 

F1公式ツイッターで「2010年代は12人の勝者」を見て少なく感じましたが、一番多いころに比べ半分以上減っているのはびっくりですね。

 

レース数も50レース以上増えて単純計算では勝つ機会は増えているのに、勝てる人が減っているんですから。

 

・1982年:11人 vs 1988年:3人

 

これは前回の記事の内容参照となってしまいますが、80年代はシーズン勝者最多の年と最少の年が存在します。(最少は同率ですが)

 

1982年はかの有名なケケ・ロズベルグの1勝でチャンピオンのシーズンで、2勝が5人、1勝が6人の大混戦のシーズンでした。

 

対照的にその6年後、マクラーレン・ホンダとセナプロがシーズンを圧巻、全戦マクラーレン・ホンダが勝つのでは?と言われたシーズンでした。

 

仮にそうなっていればF1選手権の歴史で唯一の勝者2名のシーズンとなっていたかもしれませんね。

 

(一応参考として1980年代の表をこちらにも…)

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■最後に

1950年代からを表に起こしたことで、1970年以降10年間の中の勝者数が減っていることがわかったり、思わぬ発見もあったりと楽しみながら記事を書いていました。

 

次の10年はより競争が激しいものとなり、新しい勝者がたくさん誕生してもらいたいものですね。

 

今年は残念ながら、新型コロナウイルスの影響で開幕戦どころかこの先数戦の開催延期・中止となってしまいました。

 

ですが、私としては新しい10年のはじまりである2020年のF1を過去のデータを眺めつつ、開幕を待ってみようと思います。

日本人のGP2/FIA-F2参戦を遡ってみる

お久しぶりです。鏡です。

 

今回は「日本人のGP2/FIA-F2参戦の歴史を遡る」というテーマで書いてみます。

 

 

と、いうのも。

 

2020年は久々にF1直下カテゴリーのFIA-F2に日本人が3人エントリーすることが決まったからです。

 

久々、というのは

 

だいたいこんな感じ。

 

ではそれ以外の年はどうだったのか?…というか、日本人0人の年とかあったような…。と思ったので、いつも通り大変申し訳ない表を画像化したものを貼っつけていきます。

 

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アジアシリーズについては今回は触れないこととします。

 

◇日本人は15年で12人が参戦。

 

2005年に国際F3000から生まれかわり、F1への最短コースとして誕生したGP2シリーズ。現在はFIA-F2選手権と変わりましたが役割は基本的には変わりません。

 

その15年の間に日本人は12人参戦しました。

 

◇GP2初参戦はメーカー支援のない吉本大樹

 

GP2がスタートした2005年。そこには一人の日本人がいました。

当時F1に参戦していたホンダやトヨタの育成ドライバーではない、吉本大樹

 

F1への最短コースとして誕生したカテゴリーに日本人として真っ先に、メーカーの後ろ盾なく飛び込んで2年間を戦いました。

 

ちなみに、前身となるF3000に最後に参戦していたのは光貞秀俊(2000年)で、吉本の参戦は5年ぶりの日本人F1直下カテゴリー参戦でした。

 

◇松下は今年フル参戦すれば大台の100レース

 

各ドライバーのレース参加数を見ると、松下が圧倒的で2位の吉本に対してすでにダブルスコア以上つけています。

 

このまま順調にいけば100レースの大台は超えそうです。(ちなみに、GP2/F2に参戦したドライバー全体を見ても100レース越えはTop5に入ります)

 

ちなみにポイント数もダントツの1位。2位は日本人初のレース1勝者となった牧野任祐が48ポイントです。

 

◇ARTは3人日本人を乗せている

 

2018年にジョージ・ラッセル、2019年にニック・デ・フリースをドライバーズタイトルに導いた名門チーム「ART」

 

実は日本人が一番多く乗っているチームでもあります。

 

山本左近が2008年代打参戦をし、2014年以降は伊沢拓也松下信治がホンダのサポートを受けて参戦します。

 

カンポスは「佐藤」姓しか乗せていない

 

これはどうでもいい話なのですが、カンポスは数少ない日本人の中でも「佐藤」姓の二人しか乗せていません。

 

◇MPは日本人初起用、トライデントは平手以来の日本人起用

 

2020年に松下が移籍を決めたMPモータースポーツは日本人を始めて起用します。ちなみに佐藤万璃音の移籍先は実は過去に平手晃平が所属していました。

 

 

…個人的に面白そうかな、と思ったところは以上ですかね。

他にもいろいろ表にしてみることで見えることはありそうですね。

 

あ、もう1点だけあげるなら

『参戦して無得点のドライバーがいない』というところでしょうか。

 

といっても、これは今年の佐藤万璃音、角田祐毅の活躍に左右されるところがありますが。

 

F1もそうですが日本人の若手の活躍を見守れるF2も楽しみな2020年になりそうですね。

 

それでは!

日本人F1ドライバー45年の歴史

日本人のF1参戦の歴史は「世界選手権」としては1975年、マキという純日本コンストラクターがオランダGPとイギリスGP鮒子田寛がエントリー(両方とも予選落ち)してから今年で45年の時が立ちました。

 

今回は、その45年の日本人ドライバーによるF1挑戦への歴史を簡単に振り返ってみたいと思います。

 (2020/8/15改定)

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45年間で32人が手にしたチケット

 

先ほど日本人のF1参戦の歴史は1975年、と書いたが、ここに「非選手権」も加えると1974年に高原敬武が日本人として初めてF1の非選手権に参戦している。

 それから約45年の間、F1には多くの日本人ドライバーが挑戦をしたが、実際の数をどれだけ方が把握しているだろうか?

 その答えは

  • 走行経験者数:32名
  • グランプリ走行経験者数:20名
  • フル参戦経験者数:9名

 以上となる。ちなみに、ここで言う「走行経験者」というのは「F1参戦チーム要請のもと、サーキットでテスト走行をする」という範囲までを指し、イベント走行や参戦計画のみに終わったチームでのテスト走行は含んでいない(例えば童夢F1のテスト走行など)。

 グランプリ走行経験者数については「予選または予備予選走行経験のあるもの」としているので、例えば予選落ちの記録しか残っていない鮒子田寛や予備予選のみの服部尚貴もグランプリドライバーとして計上している。

 今回は約45年の間にどのようなドライバーがF1に挑戦したのかを、大枠ではあるがまとめていきたいと思う。

 この約45年の32名について、どの時代にどのような走行経験があるのかについて簡単な表にまとめたものは以下より確認してもらえればと思う。

 

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歴代日本人F1走行経験ドライバー

※「使用車体」と表記したのは、F1インジャパンの時は他チームから車を購入出来た為こちらではあえてこのように記載しました。この辺の歴史が絡むと表記が難しいです(後段でもこの箇所で表記の仕方に揺らぎがあります)

 

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歴代日本人F1走行経験ドライバー_その2

45年の歴史、その概略

  さて、ザックリと表にしたものを見て私は4つの時代に分けられると考えた。

黎明期 1974-1977 欧州への挑戦とF1インジャパン

 

 日本人ドライバーが初めてF1という規格に挑戦したのは、前述のとおり非選手権ではあるが高原敬武が1974年に英・シルバーストンで行われた「デイリーエクスプレス・インターナショナル・トロフィー」に参戦したのが初めてである。マーチ741を駆り、予選14位/決勝11位となった。

 1975年には日本のコンストラクター「マキ」が登場。鮒子田寛がイギリスとオランダに日本人として初めて選手権にエントリーを果たした。マキF101Cは残念ながら予選25位が最上位で予選落ちに終わり、決勝レースには出走していない。

 1976年。富士スピードウェイF1世界選手権が日本初開催されると当時の日本の主力ドライバーがこぞって参戦した。星野一義長谷見昌弘桑島正美。そして、当時日本人で唯一F1参戦経験を有していた高原敬武も参戦した。車両を購入すれば参戦することが可能だった時代で、星野はティレル007を、高原はサーティースTS19で参戦を果たす。長谷見は純日本製のコジマを駆り雨中で快走を見せた。桑島はウィリアムズからスポット参戦することが出来たが、予選1日目の後にスポンサー関連のトラブルから2日目以降のシートを失ってしまった。

 翌77年も日本でF1が開催され、この年には高橋国光もF1参戦を果たす。星野・高原はコジマKE007、高橋はティレル007を駆り参戦した。

 2年開催された日本グランプリだったが、採算面や77年に発生した観客を巻き込んだ死傷事故の発生により当初あと2年開催の契約を残していたものを解除することになり、しばらくの間日本とF1は縁遠いものとなってしまう。

 

熱狂期 1982-1999 バブルが生んだ熱狂とその余韻

 

 77年に日本からF1が去った後にF1に最初に接近したのは後の初のフル参戦ドライバーとなる中嶋悟であった。1982年に全日本F2の一戦である「JPSトロフィー」で優勝し、特典として当時JPSのスポンサーを受けていたロータス91のテスト走行をする機会を得たのだ。

 その後中嶋は、84年からホンダF1のテストドライバーを務めるようになり、当時のホンダエンジンの供給先であったウィリアムズのFW10をテストするようになった。

 1987年。ついに中嶋悟は日本人初のF1フル参戦を果たす。チームは名門ロータス。チームメイトは後のチャンピオン、アイルトン・セナであった。

 日本はちょうどバブル経済に沸き、F1は一躍ブームとなった。中嶋の後を追うように、鈴木亜久里片山右京がローラやティレルのシートを獲得しフル参戦を果たす。

 中嶋悟はファステストラップを記録、鈴木亜久里は3位表彰台、片山右京は決勝2位走行を記録し、日本人が世界で通用することを証明した。

 この時期には他にも多くの日本人がF1走行の機会を得ることになった。

 井上隆智穂は94年にシムテックからスポットでデビュー、翌年にはフットワークに移籍しフル参戦。決勝最高位8位を記録する。スポット参戦ではほかに91年に服部尚貴がコローニから、93年には鈴木利男、94年には野田英樹がラルースを駆った。テストのみのドライバーでは黒澤琢弥ヤマハのテストドライバーとしてジョーダン191Yをドライブ。山本勝巳はパシフィックPR02をシルバーストンで走らせた。

 90年代の終わりになると、新しい世代のフル参戦ドライバーが登場するようになる。中野信治高木虎之介といった面々だ。しかし、デビューこそ無限ホンダや中嶋企画を後ろ盾に進んだものの、バブルが崩壊した日本にはそれ以上の後ろ盾が存在しておらず、二人はF1の世界で十分な活躍を果たすことが出来ず、それぞれ2年間F1で戦った後に北米や日本国内に新天地を求めることとなった。

 

≪コラム≫「契約」のみに終わった事例

 

 閑話休題

 ここで今回紹介する32人以外の「契約には至ったものの、走行機会を得られなかった事例」について紹介したい。

 一つは中谷明彦である。1992年ブラバムとレギュラードライバー契約を結んだものの、スーパーライセンスが発給されず参戦出来なかった。確かに厳密に発給基準を満たしてはいなかったが、後に中谷の座れなかったシートに収まったジョバンナ・アマティが基準を満たしていたが実績が中谷に及ばない(アマティは国際F3000最高位7位、中谷は全日本F3000 1勝)といったことから、海外メディアからも疑問が出ることもある。実際、アマティは3レースでブラバムを解雇。その3レースもチームメイトよりも3~5秒遅く、予選落ちを喫していた。資金が入金されなかったのも解雇の原因だが、果たして……。

もう一つ紹介する事例は、光貞秀俊だ。

 2000年にメーカーの後ろ盾なくベネトンとF1テストドライバー契約を結び、国際F3000へのフル参戦も開始していた。この背後には日本の通信関連企業が関わっており、当時日本国内や北米レースへスポンサー活動を積極的に行っていた。その支援先の一つが光貞であった。だが、その企業が倒産。支援が途絶えた光貞はテスト走行も満足に行えず(噂では走行機会はほぼなし)、また国際F3000参戦も序盤3戦の予選落ちで撤退を余儀なくされる結果となってしまった。

 

育成期 2000-2014 2大メーカーとドライバー育成

 

 高木虎之介アロウズのシートを失い、再び日本人がF1のグリッドにいない時期が訪れる。しかし、その間にホンダやトヨタがフルコンストラクターでのF1参戦を計画し、日本人ドライバーの育成も行われていた。その筆頭がホンダのレーシングスクール「SRS-F」の1期生でもある佐藤琢磨であった。

 日本人F1ドライバー空白期の中で、下位カテゴリーの英F3でのタイトル獲得やマカオGP日本人初制覇など急成長を遂げ、ホンダがエンジン供給をするB.A.Rやジョーダンでテスト走行を繰り返していた。

 2002年。佐藤琢磨がついにジョーダンからF1デビューを果たし、再びF1の世界に日本人が帰ってきた。琢磨はその後輝かしい記録を残す。2004年に記録した予選2位、決勝3位は日本人最高位タイ記録だ。

 SRS-F出身に限らず、ホンダは日本人をテストや実戦に多く起用した。脇阪寿一福田良松浦孝亮小暮卓史がテスト走行の機会を与えられた。

 2006年になると鈴木亜久里が純日本チームであるスーパーアグリを興し、佐藤琢磨と井手有治を起用しF1参戦を開始する。シーズン途中には山本左近が加入した。

 佐藤琢磨がデビューした2002年にはトヨタF1も誕生した。彼らも同様にドライバーの育成に力を入れ、「TDP」を立ち上げる。その結果2008年には中嶋一貴がウィリアムズから、2009年には小林可夢偉トヨタからF1デビューを果たした。テスト走行だけでも平中克幸や平手晃平を起用するなど、F1へ挑戦させる道筋を2メーカーが作っていた。

 ちなみに、この時期は2メーカーに関わるドライバーがF1への足掛かりを得ることが多かったが、本山哲は国内での実績などを足掛かりに2003年にジョーダンとルノーからテスト走行の機会を得ることに成功している。

 2メーカーの参戦により日本人とF1の接点が多くなったのも束の間、世界金融危機が発生するとホンダ、トヨタスーパーアグリの3チームはほぼ同時期に撤退を決める。スーパーアグリのシートを失った琢磨は北米へ活躍の場を求め、可夢偉ザウバーのオファーを受けF1参戦を継続した。

 可夢偉はそのザウバーで予選2位、決勝3位、ファステストラップ等記録を残し順風満帆かと思われたが2013年はシートを喪失。2014年にケータハムのシートを得るも、その年限りでチームが消滅しWECや国内へ活躍の場を求めることとなった。

 こうして再び日本人ドライバーがF1から姿を消すこととなった。

 

空白期 2015- 日の丸のないF1グリッド

 少し話は戻るが、小林可夢偉がシートを最初に失った2013年。欧州のミドルフォーミュラの一つ、AutoGPでランキング2位になった日本人がいた。佐藤公哉だ。彼は、以前F1ドライバーだった井上隆智穂がオーナーのチームに入り結果を出し、その年にはザウバーでF1走行の機会を得ることになる。しかし、結局シートの獲得には繋がらなかった。

 日本人は2015年以降F1のレギュラーシートを得ることが出来ないまま今日に至っている。が、そんな状況でも走行機会を手にしたドライバーはいる。

 一人はホンダ育成の松下信治である。マクラーレンと提携していた時代には開発ドライバーとしてグランプリに帯同し、ザウバーとホンダがパワーユニット供給契約で接近していた頃には、テスト走行も経験した。

 もう一人は山本尚貴である。日本国内のホンダのエースとして最前線を走り、2018年にはスーパーフォーミュラとスーパーGTのダブルタイトルを獲得し、スーパーライセンスの獲得見込みが立ち、F1へ挑戦が出来るようになった。周囲も強い後押しをし、2019年日本GPのフリー走行1回目に出走した。2015年に小林可夢偉が出走して以来約5年ぶりの日本人の公式セッション参加だった。

 

日本人を多く乗せたチーム/エンジンについて

 

 さて、ここからは日本人のF1挑戦の機会を与えたチームやエンジンについて見ていこう。
純粋に、どのチームが日本人を多く起用し、どのエンジンを日本人が使うことが多かったのか、というランキングを作成してみた。

 

2メーカーチーム以上に日本人を乗せたチーム

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 まずはチーム別から。

 1位はホンダやトヨタを抑えてジョーダン。これまでに7名の日本人をドライブさせている。

 ジョーダンはF1チーム2年目の1992年にヤマハエンジンと契約を結び、前年型のシャシーヤマハエンジンを載せた191Yでテストをする際に黒澤琢弥を起用。1994年にはエディ・アーバインの出場停止処分から鈴木亜久里がパシフィックGPで代走。無限ホンダエンジンと契約した際は脇阪寿一中野信治が、2000~02年には佐藤琢磨がテスト~レースドライバーとしてドライブした。ホンダとのかかわりが無くなった後も、本山哲と山本左近が日本GPの練習走行でドライブする等、チームの歴史の随所で日本人との関わりが多かったチームだった。

 2位には日本メーカーであるトヨタ、そして第3期ホンダとしてタッグを組んだB.A.R(後のホンダワークス含む)が入っているが、同率でローラ/ラルースも4人を起用している。
このチームは名前の変更が激しいので、ここでは当初のローラ/ラルースとしてまとめることとする。

1988年の日本GPでヤニック・ダルマスの代打として鈴木亜久里が搭乗後、90、91年とフル参戦を果たした。92年には離脱した亜久里に変わって片山右京が参戦。93年には終盤戦に鈴木利男が、94年終盤には野田英樹がドライブしている。

 

図抜けて多いフォードエンジン使用率

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 次にエンジンごとのランキング。

 1位はやはりというかフォードエンジン。今回はエンジンというくくりなのでF1インジャパン等の時代もひっくるめた結果なのだが、この時代が多くのチームがフォードエンジンを購入して参戦していた時期だったので必然に日本人としての使用者数も多い。

 2位と3位はホンダとトヨタと、日本メーカーが続きますが4位には意外なことにフェラーリが。というのも、山本左近スパイカー在籍時に、また小林可夢偉ザウバー在籍以降、佐藤公哉松下信治フェラーリエンジンを経験することになった。

 

終わりに 空白の終わりはいつになるのか―――。

 45年の振り返りをしてみて、確実に日本人はF1の優勝へと近づいていることを感じる。予選を突破できなかった初レースからF1インジャパンでは一流ドライバーを脅かした黎明期、フル参戦を達成し、多くの日本人がF1への扉をこじ開けた熱狂期、ファステストや予選フロントロー、表彰台を記録した育成期。
 2015年から日本人はF1から遠のいてしまっているがホンダはF1復帰を果たし、2010年代の強豪レッドブルと手を組み勝利も手にした。
 そして、そのホンダの育成には角田祐毅がいる。レッドブルの育成にも所属し、2020年現在F1直下カテゴリーで戦う彼が今一番F1に近いといえるだろう。
 また、角田のみならずF1直下のカテゴリーに佐藤万璃音が参戦している。佐藤は他の日本人ドライバーとは違い、長いこと欧州を舞台に戦いメーカサポートを受けずにここまで上り詰めた存在である。
 今は以前と比べF1のシートも決して多くない状況だが、ホンダからの道のりと欧州からの道のり、双方からF1への筋道が出来ているのは今後に大きな意味を持つものだと考えたい。
 空白期の終わりは、意外とすぐそこに待っていると信じて。

 

≪終劇!≫

≪参考文献≫

F1速報PLUS vol.14 F1熱狂時代2(三栄書房/2010)

他レーシングオン各号やウィキペディアなど

≪おまけ≫

ホームページ作りました。過去にここで掲載した記事のリライトやグラフや表などを時間がある時にちまちま継ぎ足して行く予定なのでよければ登録していただければ…。

http://sandukuri.starfree.jp/

日本人F1ドライバーに関するムダ知識

はい、どーも。鏡です。


さて、今回は日本人F1ドライバーの「生きていく上で何の役にも立たない無駄な知識」を3点紹介していきますよ~

 

≪注意≫

※この先の記事ではイベント等でのドライブは含まず、レース、予選、フリー走行、公式テスト、非公式テストまでのことを差す。

 

◆日本人で一番多い苗字は?

※ただしF1に限る。


1974年に高原敬武さんがマーチ・フォード741を駆ってF1ノンタイトル戦に参戦して45年が経過しましたが、その間に32名の日本人がF1マシンをドライブしました。


その中で、同じ名字の人って何人いたのか?というランキングです。


結果は以下のとおり!

 

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2020_日本人F1ドライバー苗字ランキング

 

1位は何と、国内全体の名字ランキングでは7位の『山本』


といっても、2019年に山本尚貴選手がトロロッソをドライブして頭一つ抜けたという感じですが。


山本尚貴選手のほかには、

スーパーアグリスパイカー、HRTでレース参戦経験のある山本左近さん

1995年にパシフィックでテスト走行経験のある山本勝巳さんがいらっしゃいます。


同率2位でF1ではなじみのある3つの名字『佐藤』『鈴木』『中嶋』が並びます。


『佐藤』はインディ500覇者の佐藤琢磨選手と、今はSuperGTで活躍している佐藤公哉選手


『鈴木』は元祖表彰台男鈴木亜久里さんと、95年に鈴木利男さんが


『中嶋』は言わずもがな、日本初の親子F1ドライバーとなった悟・一貴親子で御座います。


ちなみに、なぜこんな企画を考えたかというと山本尚貴選手がトロロッソでF1走行をすると発表された時ふと思い出してこんなツイートをしたんです。

 

 

まぁ、全く反応なかったんですけどねー(笑)

 

なので、いろいろ情報をまとめてブログの記事か同人誌かなにかに使用かなぁと思っていたので。

 

少し面白いと思ったのは、1位の『山本』姓ですが誰一人としてフルタイムでF1に参戦していないというところです。


◆3人の日本人を乗せたことがある3台のF1マシン


同じマシン(ここでは型式とします)に国籍が同じ人が複数乗ることは今となってはそんなに多くはありません。


まして日本人はこれまで31人しかF1に乗っていないので同じ車に乗ることなどそうそうないです。


が、過去3台だけ3人の日本人が走行したマシンがあります。


1.スーパーアグリSA05(2006年:佐藤琢磨、井手有治、山本左近


オールジャパンを目指したスーパーアグリは初年度に3人の日本人を走らせました。そのうちチーム初の車「SA05」は日本人3人が走行させていました。

 

山本左近さんについてはレースデビューはSA06が投入されたドイツGPからですが、それ以前のイギリスGPからサードドライバーとしてSA05をフリー走行で走らせています。


2.ティレル020(020~020Cまで含む)
(1991~93年:中嶋悟鈴木亜久里片山右京


過去日本人を多用したF1チームとしても知られるティレルも、020という形式が3年間使われた時に同じ形式のマシンに3人の日本人がドライブしました。


中嶋悟さん最後の愛機であり、片山右京さんのティレルでの最初の相棒でもありますが、実は鈴木亜久里さんもこれに乗っています。


92年シーズンにフットワーク・無限ホンダに移籍する際に91年12月に無限ホンダエンジンのテストの為に真っ白なティレル020を走らせていたのでした。


3.コジマKE009(改も含む)
(1977年:星野一義、高原敬武、高橋国光


さらにさかのぼって1977年。F1インジャパンとして富士スピードウェイでF1が開催されていた時に日本人3人ドライブしていた形式がコジマKE009。


これは、F1インジャパンの後日にケケ・ロズベルグもドライブしたことのあるマシンです(改の方)


◆『HRF1』としてF1をドライブした日本人はたったの一人!?

 

HRF1...。つまり、ホンダレーシングF1チームのことですね。

日本人でホンダの協力を得てF1ドライブを達成した人は少なくありません。


しかし、にもかかわらず『ホンダレーシングF1』としてF1ドライブをした人数は実は1人しかいないって知っていましたか?


...まぁ、そもそもホンダレーシングF1として参戦した期間を考えれば少ないのは仕方ないと思いますけど...(2006~2008年のたった3年間)


さて、その一人というのが誰かというと

 

 

小暮卓史選手なのです。

 

2007年に日本のトップカテゴリーである『フォーミュラニッポン(現スーパーフォーミュラ)』で最終戦までタイトル争いを繰り広げ、最終的にランキング3位になると、その成績が評価され翌2008年のバレンシアテストでRA107での走行機会を得ました。

 

しかし、慣れない左足ブレーキに苦戦し結果は芳しくはありませんでした。その翌年、ホンダはF1から撤退したため小暮選手は唯一のホンダフルワークスでの公式F1走行経験をした日本人となっています。


ちなみに、トヨタは参戦した8年間の内に日本人を4人ドライブさせていて

ドライバーは以下のとおり。


TF102:高木虎之介
TF104:平中克幸
TF106B:平手晃平
TF106B~TF109:小林可夢偉


今やWECなどでトヨタモータースポーツの顔の一人となっている中嶋一貴選手はF1公式セッションや公式テストでトヨタF1を走行させたことはないという意外な事実もあったりします。


今回は以上です!


また時間がある時にでも、役に立たない小ネタをまとめていこうと思います!


≪参考文献≫
F1速報PLUS vol.14 F1熱狂時代2(三栄書房/2010)
Racing on No113 (三栄書房/1992)