日本人F1ドライバー45年の歴史

日本人のF1参戦の歴史は「世界選手権」としては1975年、マキという純日本コンストラクターがオランダGPとイギリスGP鮒子田寛がエントリー(両方とも予選落ち)してから今年で45年の時が立ちました。

 

今回は、その45年の日本人ドライバーによるF1挑戦への歴史を簡単に振り返ってみたいと思います。

 (2020/8/15改定)

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45年間で32人が手にしたチケット

 

先ほど日本人のF1参戦の歴史は1975年、と書いたが、ここに「非選手権」も加えると1974年に高原敬武が日本人として初めてF1の非選手権に参戦している。

 それから約45年の間、F1には多くの日本人ドライバーが挑戦をしたが、実際の数をどれだけ方が把握しているだろうか?

 その答えは

  • 走行経験者数:32名
  • グランプリ走行経験者数:20名
  • フル参戦経験者数:9名

 以上となる。ちなみに、ここで言う「走行経験者」というのは「F1参戦チーム要請のもと、サーキットでテスト走行をする」という範囲までを指し、イベント走行や参戦計画のみに終わったチームでのテスト走行は含んでいない(例えば童夢F1のテスト走行など)。

 グランプリ走行経験者数については「予選または予備予選走行経験のあるもの」としているので、例えば予選落ちの記録しか残っていない鮒子田寛や予備予選のみの服部尚貴もグランプリドライバーとして計上している。

 今回は約45年の間にどのようなドライバーがF1に挑戦したのかを、大枠ではあるがまとめていきたいと思う。

 この約45年の32名について、どの時代にどのような走行経験があるのかについて簡単な表にまとめたものは以下より確認してもらえればと思う。

 

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歴代日本人F1走行経験ドライバー

※「使用車体」と表記したのは、F1インジャパンの時は他チームから車を購入出来た為こちらではあえてこのように記載しました。この辺の歴史が絡むと表記が難しいです(後段でもこの箇所で表記の仕方に揺らぎがあります)

 

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歴代日本人F1走行経験ドライバー_その2

45年の歴史、その概略

  さて、ザックリと表にしたものを見て私は4つの時代に分けられると考えた。

黎明期 1974-1977 欧州への挑戦とF1インジャパン

 

 日本人ドライバーが初めてF1という規格に挑戦したのは、前述のとおり非選手権ではあるが高原敬武が1974年に英・シルバーストンで行われた「デイリーエクスプレス・インターナショナル・トロフィー」に参戦したのが初めてである。マーチ741を駆り、予選14位/決勝11位となった。

 1975年には日本のコンストラクター「マキ」が登場。鮒子田寛がイギリスとオランダに日本人として初めて選手権にエントリーを果たした。マキF101Cは残念ながら予選25位が最上位で予選落ちに終わり、決勝レースには出走していない。

 1976年。富士スピードウェイF1世界選手権が日本初開催されると当時の日本の主力ドライバーがこぞって参戦した。星野一義長谷見昌弘桑島正美。そして、当時日本人で唯一F1参戦経験を有していた高原敬武も参戦した。車両を購入すれば参戦することが可能だった時代で、星野はティレル007を、高原はサーティースTS19で参戦を果たす。長谷見は純日本製のコジマを駆り雨中で快走を見せた。桑島はウィリアムズからスポット参戦することが出来たが、予選1日目の後にスポンサー関連のトラブルから2日目以降のシートを失ってしまった。

 翌77年も日本でF1が開催され、この年には高橋国光もF1参戦を果たす。星野・高原はコジマKE007、高橋はティレル007を駆り参戦した。

 2年開催された日本グランプリだったが、採算面や77年に発生した観客を巻き込んだ死傷事故の発生により当初あと2年開催の契約を残していたものを解除することになり、しばらくの間日本とF1は縁遠いものとなってしまう。

 

熱狂期 1982-1999 バブルが生んだ熱狂とその余韻

 

 77年に日本からF1が去った後にF1に最初に接近したのは後の初のフル参戦ドライバーとなる中嶋悟であった。1982年に全日本F2の一戦である「JPSトロフィー」で優勝し、特典として当時JPSのスポンサーを受けていたロータス91のテスト走行をする機会を得たのだ。

 その後中嶋は、84年からホンダF1のテストドライバーを務めるようになり、当時のホンダエンジンの供給先であったウィリアムズのFW10をテストするようになった。

 1987年。ついに中嶋悟は日本人初のF1フル参戦を果たす。チームは名門ロータス。チームメイトは後のチャンピオン、アイルトン・セナであった。

 日本はちょうどバブル経済に沸き、F1は一躍ブームとなった。中嶋の後を追うように、鈴木亜久里片山右京がローラやティレルのシートを獲得しフル参戦を果たす。

 中嶋悟はファステストラップを記録、鈴木亜久里は3位表彰台、片山右京は決勝2位走行を記録し、日本人が世界で通用することを証明した。

 この時期には他にも多くの日本人がF1走行の機会を得ることになった。

 井上隆智穂は94年にシムテックからスポットでデビュー、翌年にはフットワークに移籍しフル参戦。決勝最高位8位を記録する。スポット参戦ではほかに91年に服部尚貴がコローニから、93年には鈴木利男、94年には野田英樹がラルースを駆った。テストのみのドライバーでは黒澤琢弥ヤマハのテストドライバーとしてジョーダン191Yをドライブ。山本勝巳はパシフィックPR02をシルバーストンで走らせた。

 90年代の終わりになると、新しい世代のフル参戦ドライバーが登場するようになる。中野信治高木虎之介といった面々だ。しかし、デビューこそ無限ホンダや中嶋企画を後ろ盾に進んだものの、バブルが崩壊した日本にはそれ以上の後ろ盾が存在しておらず、二人はF1の世界で十分な活躍を果たすことが出来ず、それぞれ2年間F1で戦った後に北米や日本国内に新天地を求めることとなった。

 

≪コラム≫「契約」のみに終わった事例

 

 閑話休題

 ここで今回紹介する32人以外の「契約には至ったものの、走行機会を得られなかった事例」について紹介したい。

 一つは中谷明彦である。1992年ブラバムとレギュラードライバー契約を結んだものの、スーパーライセンスが発給されず参戦出来なかった。確かに厳密に発給基準を満たしてはいなかったが、後に中谷の座れなかったシートに収まったジョバンナ・アマティが基準を満たしていたが実績が中谷に及ばない(アマティは国際F3000最高位7位、中谷は全日本F3000 1勝)といったことから、海外メディアからも疑問が出ることもある。実際、アマティは3レースでブラバムを解雇。その3レースもチームメイトよりも3~5秒遅く、予選落ちを喫していた。資金が入金されなかったのも解雇の原因だが、果たして……。

もう一つ紹介する事例は、光貞秀俊だ。

 2000年にメーカーの後ろ盾なくベネトンとF1テストドライバー契約を結び、国際F3000へのフル参戦も開始していた。この背後には日本の通信関連企業が関わっており、当時日本国内や北米レースへスポンサー活動を積極的に行っていた。その支援先の一つが光貞であった。だが、その企業が倒産。支援が途絶えた光貞はテスト走行も満足に行えず(噂では走行機会はほぼなし)、また国際F3000参戦も序盤3戦の予選落ちで撤退を余儀なくされる結果となってしまった。

 

育成期 2000-2014 2大メーカーとドライバー育成

 

 高木虎之介アロウズのシートを失い、再び日本人がF1のグリッドにいない時期が訪れる。しかし、その間にホンダやトヨタがフルコンストラクターでのF1参戦を計画し、日本人ドライバーの育成も行われていた。その筆頭がホンダのレーシングスクール「SRS-F」の1期生でもある佐藤琢磨であった。

 日本人F1ドライバー空白期の中で、下位カテゴリーの英F3でのタイトル獲得やマカオGP日本人初制覇など急成長を遂げ、ホンダがエンジン供給をするB.A.Rやジョーダンでテスト走行を繰り返していた。

 2002年。佐藤琢磨がついにジョーダンからF1デビューを果たし、再びF1の世界に日本人が帰ってきた。琢磨はその後輝かしい記録を残す。2004年に記録した予選2位、決勝3位は日本人最高位タイ記録だ。

 SRS-F出身に限らず、ホンダは日本人をテストや実戦に多く起用した。脇阪寿一福田良松浦孝亮小暮卓史がテスト走行の機会を与えられた。

 2006年になると鈴木亜久里が純日本チームであるスーパーアグリを興し、佐藤琢磨と井手有治を起用しF1参戦を開始する。シーズン途中には山本左近が加入した。

 佐藤琢磨がデビューした2002年にはトヨタF1も誕生した。彼らも同様にドライバーの育成に力を入れ、「TDP」を立ち上げる。その結果2008年には中嶋一貴がウィリアムズから、2009年には小林可夢偉トヨタからF1デビューを果たした。テスト走行だけでも平中克幸や平手晃平を起用するなど、F1へ挑戦させる道筋を2メーカーが作っていた。

 ちなみに、この時期は2メーカーに関わるドライバーがF1への足掛かりを得ることが多かったが、本山哲は国内での実績などを足掛かりに2003年にジョーダンとルノーからテスト走行の機会を得ることに成功している。

 2メーカーの参戦により日本人とF1の接点が多くなったのも束の間、世界金融危機が発生するとホンダ、トヨタスーパーアグリの3チームはほぼ同時期に撤退を決める。スーパーアグリのシートを失った琢磨は北米へ活躍の場を求め、可夢偉ザウバーのオファーを受けF1参戦を継続した。

 可夢偉はそのザウバーで予選2位、決勝3位、ファステストラップ等記録を残し順風満帆かと思われたが2013年はシートを喪失。2014年にケータハムのシートを得るも、その年限りでチームが消滅しWECや国内へ活躍の場を求めることとなった。

 こうして再び日本人ドライバーがF1から姿を消すこととなった。

 

空白期 2015- 日の丸のないF1グリッド

 少し話は戻るが、小林可夢偉がシートを最初に失った2013年。欧州のミドルフォーミュラの一つ、AutoGPでランキング2位になった日本人がいた。佐藤公哉だ。彼は、以前F1ドライバーだった井上隆智穂がオーナーのチームに入り結果を出し、その年にはザウバーでF1走行の機会を得ることになる。しかし、結局シートの獲得には繋がらなかった。

 日本人は2015年以降F1のレギュラーシートを得ることが出来ないまま今日に至っている。が、そんな状況でも走行機会を手にしたドライバーはいる。

 一人はホンダ育成の松下信治である。マクラーレンと提携していた時代には開発ドライバーとしてグランプリに帯同し、ザウバーとホンダがパワーユニット供給契約で接近していた頃には、テスト走行も経験した。

 もう一人は山本尚貴である。日本国内のホンダのエースとして最前線を走り、2018年にはスーパーフォーミュラとスーパーGTのダブルタイトルを獲得し、スーパーライセンスの獲得見込みが立ち、F1へ挑戦が出来るようになった。周囲も強い後押しをし、2019年日本GPのフリー走行1回目に出走した。2015年に小林可夢偉が出走して以来約5年ぶりの日本人の公式セッション参加だった。

 

日本人を多く乗せたチーム/エンジンについて

 

 さて、ここからは日本人のF1挑戦の機会を与えたチームやエンジンについて見ていこう。
純粋に、どのチームが日本人を多く起用し、どのエンジンを日本人が使うことが多かったのか、というランキングを作成してみた。

 

2メーカーチーム以上に日本人を乗せたチーム

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 まずはチーム別から。

 1位はホンダやトヨタを抑えてジョーダン。これまでに7名の日本人をドライブさせている。

 ジョーダンはF1チーム2年目の1992年にヤマハエンジンと契約を結び、前年型のシャシーヤマハエンジンを載せた191Yでテストをする際に黒澤琢弥を起用。1994年にはエディ・アーバインの出場停止処分から鈴木亜久里がパシフィックGPで代走。無限ホンダエンジンと契約した際は脇阪寿一中野信治が、2000~02年には佐藤琢磨がテスト~レースドライバーとしてドライブした。ホンダとのかかわりが無くなった後も、本山哲と山本左近が日本GPの練習走行でドライブする等、チームの歴史の随所で日本人との関わりが多かったチームだった。

 2位には日本メーカーであるトヨタ、そして第3期ホンダとしてタッグを組んだB.A.R(後のホンダワークス含む)が入っているが、同率でローラ/ラルースも4人を起用している。
このチームは名前の変更が激しいので、ここでは当初のローラ/ラルースとしてまとめることとする。

1988年の日本GPでヤニック・ダルマスの代打として鈴木亜久里が搭乗後、90、91年とフル参戦を果たした。92年には離脱した亜久里に変わって片山右京が参戦。93年には終盤戦に鈴木利男が、94年終盤には野田英樹がドライブしている。

 

図抜けて多いフォードエンジン使用率

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 次にエンジンごとのランキング。

 1位はやはりというかフォードエンジン。今回はエンジンというくくりなのでF1インジャパン等の時代もひっくるめた結果なのだが、この時代が多くのチームがフォードエンジンを購入して参戦していた時期だったので必然に日本人としての使用者数も多い。

 2位と3位はホンダとトヨタと、日本メーカーが続きますが4位には意外なことにフェラーリが。というのも、山本左近スパイカー在籍時に、また小林可夢偉ザウバー在籍以降、佐藤公哉松下信治フェラーリエンジンを経験することになった。

 

終わりに 空白の終わりはいつになるのか―――。

 45年の振り返りをしてみて、確実に日本人はF1の優勝へと近づいていることを感じる。予選を突破できなかった初レースからF1インジャパンでは一流ドライバーを脅かした黎明期、フル参戦を達成し、多くの日本人がF1への扉をこじ開けた熱狂期、ファステストや予選フロントロー、表彰台を記録した育成期。
 2015年から日本人はF1から遠のいてしまっているがホンダはF1復帰を果たし、2010年代の強豪レッドブルと手を組み勝利も手にした。
 そして、そのホンダの育成には角田祐毅がいる。レッドブルの育成にも所属し、2020年現在F1直下カテゴリーで戦う彼が今一番F1に近いといえるだろう。
 また、角田のみならずF1直下のカテゴリーに佐藤万璃音が参戦している。佐藤は他の日本人ドライバーとは違い、長いこと欧州を舞台に戦いメーカサポートを受けずにここまで上り詰めた存在である。
 今は以前と比べF1のシートも決して多くない状況だが、ホンダからの道のりと欧州からの道のり、双方からF1への筋道が出来ているのは今後に大きな意味を持つものだと考えたい。
 空白期の終わりは、意外とすぐそこに待っていると信じて。

 

≪終劇!≫

≪参考文献≫

F1速報PLUS vol.14 F1熱狂時代2(三栄書房/2010)

他レーシングオン各号やウィキペディアなど

≪おまけ≫

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