日本のF1参戦の歴史 ~チーム・エンジンメーカー編~ (1962-2021 概略)

≪前口上≫ ドライバーよりもハードルの高い「チーム」「エンジン」参戦

 

以前、日本人F1ドライバー参戦の歴史を簡単にまとめさせていただいたが、今回はチームやエンジンメーカーといった形での参戦の歴史をまとめてみた。あくまで個人的に把握できている分だけとなるのでその点はご了承いただきたい。

 

この後の文章がだいぶ長くなったので前置きはここまでとして……。

 

 

おおよその年表は以下より

1.ホンダの挑戦 -ホンダ第1期-(1962-1968)

■主な参戦チーム:

ホンダ(予選最高位:1位[1回] 決勝最高位:1位[2勝])

■主な参戦エンジンメーカー:

ホンダ(予選最高位:1位[1回] 決勝最高位:1位[2勝])

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ホンダRA272はホンダ初勝利のマシン

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ホンダRA301は初のポールポジションを獲得する

 

 日本で初めてF1へ参戦を開始したのはホンダである。

 参戦計画は1962年に正式に発表され、当初は当時の有力チームであったブラバムロータスへの供給という形でエンジンの開発を行っていた。そしてロータスへの供給が決まったかと思いきや、開幕直前の1964年2月に提携破棄を通告される。

 そこからホンダはすべて自前で参戦を行うことになる。エンジン開発の為にRA270というテスト車両があったが、全く新しいRA271を製作し1964年8月、ドイツGPからF1の世界へと乗り込んでいく。

 翌年にはRA272を投入、初勝利を収めます。その後1967年にも1勝、第1期最終年の1968年には初のポールポジションを獲得し、5年間の参戦を終了した。

 

2.マキとコジマ -キットカー時代の挑戦者-(1974-1977)

■主な参戦チーム:

マキ / 予選最高位:25位 決勝最高位:-[未出走]

コジマ / 予選最高位:10位 決勝最高位:11位

ヒーローズレーシング / 予選最高位:11位 決勝最高位:11位

メイリツレーシング / 予選最高位:22位 決勝最高位:9位

■主な参戦エンジン:なし

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マキF101は第1期ホンダ撤退後に現れた最初の日本製F1マシンだ

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コジマKE007は予選で好走するも結果は残すことが出来なかった

 

 

 ホンダの参戦終了から暫くF1に挑戦する日本チーム等はなかったが、1974年に謎の日本チーム「マキ」が参戦を発表し、同年欧州での2戦に参戦をする。シャシーはオリジナルでエンジンはコスワースだ。結果的に75年オランダで鮒子田寛が予選25位をマークしたのが最高位で、決勝には未出走に終わっている。

 76年からはF1が富士スピードウェイで初開催。日本人や日本エントラントが果敢に挑んだ。コジマは前述のマキから分裂する形で発生したコンストラクターで、こちらもオリジナルシャシーコスワース製のエンジンを搭載し、予選では“幻のスーパーラップ”を叩き出す力を魅せた。

 同年に当時国内有数のレーシングチームであったヒーローズレーシングがティレル007を購入して星野一義がドライブ、翌76年はコジマKE009を駆って参戦した。同76年はメイリツレーシングが高橋国光と共に中古のティレル007で参戦し9位完走という結果を残した。

 

3. F1バブル到来(1981-2000)

3-1.黄金時代とその継承 -ホンダ第2期と無限ホンダ-

■主な参戦チーム(カッコ内はホンダ及び無限ホンダエンジン供給期間):

ウィリアムズ(ホンダ:83年最終戦~87年) / 予選最高位:1位[19回] 決勝最高位:1位[23勝]ドライバーズタイトル:1回、コンストラクターズタイトル:2回

ロータス(ホンダ:87~88年、無限ホンダ:94年) / 予選最高位:1位[1回] 決勝最高位:1位[2勝]※全てロータス・ホンダ時代の最高成績

マクラーレン(ホンダ:89~92年) / 予選最高位:1位[53回] 決勝最高位:1位[44勝]ドライバーズタイトル:4回、コンストラクターズタイトル:4回

リジェ/プロスト(無限ホンダ:95~97年) / 予選最高位:3位 決勝最高位:1位[1勝]

ジョーダン(無限ホンダ:98~00年) / 予選最高位:1位 決勝最高位:1位[3勝]

■主な参戦エンジンメーカー:

ホンダ(予選最高位:1位[73回] 決勝最高位:1位[69勝])

無限ホンダ(予選最高位:1位[1回] 決勝最高位:1位[4勝])

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Williams FW10は第2期ホンダの初期に3勝を挙げた

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McLaren MP4/6は今現在最後のホンダエンジンによるチャンピオンマシンだ

 

 ここまで各時代の紹介をしてきたが、バブル期は同時期に複数のF1参戦や計画があったため、ある程度まとめたうえで紹介していこうと思う。

 

 まずはホンダ第2期とそのエンジンを引き継いだ無限から。

 ホンダは80年代にヨーロッパF2にエンジンを供給。勝ち星を重ね、ついに83年にスピリットへ供給という形でF1へカムバックする。同年最終戦にはウィリアムズへと供給先を変更し、その後もロータスマクラーレンティレルと計5チームへの供給を行い、69勝とドライバーズタイトル5回とコンストラクターズタイトル6回を獲得します。

 ホンダは92年をもって再度活動を停止。その中89~91年にホンダが供給したV10エンジンをもとに無限ホンダが92年からフットワークに供給する形で参戦を開始する。

 無限自体は87年頃から独自でV8エンジンでのF1参戦を計画しており、レイナード製のF3000シャシーをベースにしたテストモデルやティレル018シャシーを使いテストを行っていたが、結果的に前述通りホンダV10を引き継いで開発を行うこととなる。

 無限はその後ロータス、リジェ(97年はプロスト)、ジョーダンへ供給を行い、97年にはプロストが雨のモナコで無限にとっての初勝利を収めると、ジョーダンでは98年に1-2フィニッシュ、99年は2勝1PPを挙げ、ドライバーズタイトルを争う活躍をみせた。

 

 

3-2.「技術力の証明」という名の挑戦 -日本メーカーのエンジン開発-

■主な参戦チーム(カッコ内は日本メーカー製エンジン供給期間):

コローニ(スバル:1990年) / 予選最高位:(予備予選不通過)

ティレルヤマハ:1993-96年) / 予選最高位:3位 決勝最高位:3位

アロウズヤマハ:1997年) / 予選最高位:3位 決勝最高位:2位

 

■主な参戦エンジンメーカー:

スバル(予備予選不通過)

ヤマハ(予選最高位:3位 決勝最高位:2位)

 

■エンジン開発をしていたメーカー

トヨタロータスからV6ターボエンジンの開発協力があったとみられる

いすゞ:社内プロジェクトとしてV12エンジンを開発。ロータスに搭載しテスト

HKS:V12エンジンを開発。F3000シャシーに搭載し国内テスト

スズキ:レイトンハウスと提携する計画があり、96年までに3型式を製作

 

 

 バブル期には多くの自動車メーカーが自らの技術を試すためにF1エンジンを開発していた。

 まずは実際にF1マシンに搭載されたメーカーから紹介したい。

 スバルは1989年にスーパーカー開発から派生して「究極の水平対向エンジンを作る」ことを目標に、イタリアはモトーリ・モデルニ社と共にF1用エンジンの開発を開始することになる。90年にはモトーリ・モデルニ社と関係が深いミナルディのマシンに搭載され実走テストを繰り返したが、ミナルディは実戦投入を断念。91年にようやっとコローニのマシンに搭載された。が、予備予選通過すらままならず91年を走り切ることなくF1を去っていった。

 90年からザクスピードへV8ターボエンジンを供給したのはヤマハだ。その年は予備予選通過すらままならず、決勝進出はわずか2回と惨憺たる成績だったが、翌年1年を開発期間に据えV12エンジンを開発、ブラバムと戦いポイント獲得も出来る戦闘力を得た。翌年にジョーダンへ、93年からはV10エンジンに切り替えティレルアロウズに供給をした。最終的に勝利には手が届かなかったが、97年には予選3位、決勝ではあわや優勝の2位を記録した。

 いすゞは自社の技術力の確認の為F1エンジンの開発を行った。完成したのちに運よくロータスとつながりが持て、1991年シルバーストンで102Cの車体に搭載して実走テストまで行い、関係者が高い評価を与える結果となった。だが、あくまで技術レベルの確認ということもあり、このテストをもってプロジェクトは終了となった。

 

 この時期、エンジン開発はされたがF1マシンに搭載されなかったものも多くある。

 まずはトヨタ。1981年前後にロータスと関係を持ち、ターボエンジンの開発依頼があったとされている。開発には時間が要しいくつかのエンジンが完成してはいたが、マシンに搭載されることはなかった。

 次にHKS。こちらは1990年に完全オリジナルでV12エンジンの製作を開始。91年には完成し、F3000マシンを改造した車体に搭載し日本国内でテスト走行や発表会などを行ったが、F1チームとの契約には至らなかった。

 最後にスズキ。91年にレイトンハウスと繋がりを持ち、ダンパーなどの技術協力を開始。最終的にはスズキへチームを譲る構想まで立てられており、スズキも数億円規模の開発設備を建設し、V12エンジンの開発に着手していた。だが、レイトンハウス社長逮捕で計画は霧散。スズキは96年まで実戦可能レベルのエンジンの開発を続けるも、最終的に実走テストが叶わぬまま計画は終了した。

 

3-3.チームオーナーとしてF1へ -泡沫のチームオーナー達-

■主なチーム

レイトンハウス(1989~91年)

ブラバム(1990~92年:ミッドブリッジレーシング)

ラルース(1990~91年:エスポ、1992年:セントラルパーク)

フットワーク(1991~93年)

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日本系企業が支援をしていたラルース(手前がLC92、奥がLC91)

 バブル期には日本人がチームを買収しオーナーになることもあった。

 レイトンハウスは、1987年に名門コンストラクターであるマーチと提携しF1へ進出。89年にはチームを買収し、赤城明氏がオーナーに。成績も向上していった。

 ブラバムは1990年に日本人実業家の中内康児氏が率いるミドルブリッジが運営を行うこととなり、以後日本企業のスポンサーが増えていった。

 ラルースは90年に日本企業のエスポが株式を取得し、伊東和夫氏がオーナーになるが翌91年末に破産。92年に事業再生を受けることになり、フランス高級自動車メーカーのヴェンチュリーと共に、日本企業のセントラルパークが株式を取得した。

 フットワークは1990年にアロウズのスポンサーとなると翌年にはチームを買収。92年には無限ホンダエンジンと鈴木亜久里を獲得した。

 

 しかしながら、いずれも91年以降のバブル崩壊の影響で企業の業績が悪化。僅かな期間でチームを手放すことになった。

 

 

3-4.国産シャシーコンストラクターの届かなかった挑戦

 エンジンやオーナーに限らず、この時期にはシャシーコンストラクターにもF1挑戦の夢がすぐ目の前に存在していた。

 有名なところで言えば童夢であろう。94年に計画の発表をすると無限エンジン搭載を前提にF105が開発され、国内でテストが繰り返された。だが、ホンダがF1復帰を決めると状況が一変、無限エンジンの搭載も難しくなり参戦計画に暗雲が立ち込めるようになった。

 海外コンソーシアムとの協力や既存F1チームへのシャシー提供などを模索したが98年にプロジェクトは静かに幕を降ろした。

 次にトムスが有名だろう。92年に自身のチームからの参戦を目論んだアラン・プロストとデザイナー、ジョン・バーナードによりトヨタエンジン獲得の為に関係の深いトムスをF1チームとして参戦させる計画が発端だが、その計画はトヨタが断った為早々に頓挫した。

 だが、すぐ翌年に今度はトムスが独自でF1参戦を企画。011Fシャシースケールモデルの製作とフォードHBエンジンを搭載するまでは決まっていたが、肝心のスポンサーが集まらず計画は中止を余儀なくされた。

 あまり知られていないところで言えば、ムーンクラフトもフットワークやヤマハと共に参戦する計画の下、1987~1990年にかけてF1用シャシーの開発(最終形としてMC-050)を、92年にはトレブロンという謎のコンストラクターが参戦計画を、94年にはかつて欧州で活躍した生沢徹が興したイクザワF1が英国で拠点を開設、リクルートをするなど行っていたがどれも陽の目を見ることはなかった。

 

 

4.ホンダの復帰とトヨタの挑戦(1998-2010)

■主な参戦チーム(カッコ内は日本製エンジン供給期間):

ジョーダン(ホンダ:01~02年、トヨタ:2005年) / 予選最高位:4位 決勝最高位:3位

BAR(ホンダ:00~05年) / 予選最高位:1位[2回] 決勝最高位:2位

ホンダ(06~08年) / 予選最高位:1位[1回] 決勝最高位:1位[1勝]

トヨタ(02~09年) / 予選最高位:1位[3回] 決勝最高位:2位

ウィリアムズ(トヨタ:07~09年) / 予選最高位:3位 決勝最高位:3位

スーパーアグリ(ホンダ:06~08年) / 予選最高位:10位 決勝最高位:6位

 

■主な参戦エンジンメーカー:

ホンダ(予選最高位:1位[3回] 決勝最高位:1位[1勝])

トヨタ(予選最高位:1位[3回] 決勝最高位:2位)

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BAR006は第3期ホンダ初のポールポジションを獲得したマシン

 

 バブル崩壊後、日本企業はF1から離れつつある状態となった。そんな中、ホンダがF1へ復帰の動きを見せる。まずは98年にRA099というテストマシンが用意され、99年には公式テストにも参加。フルワークス参戦間近と伝えられた。しかし、社内での様々な動きからエンジン供給のみに変更され、BARへの供給が2000年から開始された。

 その後、無限ホンダエンジンの供給を受けていたジョーダンや鈴木亜久里の立ち上げたスーパーアグリにエンジンを供給。06年にはBARの株式を取得しホンダフルワークスとしての参戦に移行。その年に1勝を挙げた。

 しかし、翌年以降は成績が低迷。08年も成績は低空飛行を続け、早々に09年用のRA109の開発を進めていたが、経済状況の悪化から08年末に撤退。当時チーム代表のロス・ブラウンにチームを売却した。09年用に開発されたRA109はブラウンGPのBGP001として09年を走り、Wタイトルを収める活躍をみせた。

 トヨタは99年にF1参戦表明をすると、テストカーTF101を01年に発表した後に各地のGPサーキットでテスト走行を行い、翌02年から本格参戦を開始する。

 05年、08年、09年では特に好走を見せ表彰台を13回獲得したが、勝利を手にすることはなく、09年末に経済状況の悪化から撤退を余儀なくされた。こちらも翌年用にTF110を開発していたが、こちらはその後使用されることはなかった。

 エンジン供給としては05年にジョーダン、翌06年にはMF1。07~09年はウィリアムズへ供給。ジョーダンで1回、ウィリアムズで3回の表彰台を獲得した。

 

 久々の日本初のプライベーターとして参加したのはスーパーアグリだ。ホンダの強力なバックアップの下、06年に突貫で作ったSA05(4年落ちのアロウズA23がベース)で参戦を開始すると、翌07年は開幕戦で予選10位、決勝6位の記録を残した。しかし、慢性的な資金不足に苦しみ、最後はチーム売却交渉も不成立に終わり08年途中で撤退を決めた。

 

 また、この時期には一つ未成に終わった参戦計画もあった。ディレクシブだ。当初はBARの買収を企て、最終的にマクラーレンのセカンドチームとして参戦を目指すもエントリー申請で落選。その後、急速にレース活動から撤退していった。

 

 5.ホンダ、最後の挑戦(2015-2021)

■主な参戦チーム(カッコ内はホンダ及び無限ホンダエンジン供給期間):

マクラーレン(ホンダ:2015~17年) / 予選最高位:3位 決勝最高位:5位

トロ・ロッソ(アルファタウリ)(ホンダ:2018~21年) / (予選最高位:4位 決勝最高位:1位[1勝])

レッドブル(ホンダ:2019~21年) / (予選最高位:1位[8回] 決勝最高位:1位[11勝])

※2021/7/24時点のデータ

 

■主な参戦エンジンメーカー:

ホンダ(予選最高位:1位[3回] 決勝最高位:1位[12勝])

※2021/7/24時点のデータ

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McLaren MP4-30は第4期ホンダ最初のマシンである

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RB15は第4期ホンダとして初優勝を達成したマシン。通算3勝を達成する。

 

 2009年にトヨタがF1撤退を決めた後、エンジンメーカーやコンストラクターとしての日本の参戦はついに途絶えた。それは第2期ホンダがスピリットにエンジン供給を開始する前年の1982年以来のことだった。

 しかし、2015年にホンダがマクラーレンへとパワーユニット(以下PU)供給という形でF1にカムバックする。だが、PUの開発に苦戦し、マクラーレン側のゴタゴタにも巻き込まれる形で長期契約を双方合意の上で解除することに。

 そこに声をかけたのはレッドブル陣営だった。以前よりホンダと共闘したいと語っていたフランツ・トスト代表率いるトロ・ロッソへ18年にPU供給を開始すると、同年決勝最高位4位を出し、19年からはいよいよレッドブルへの供給も開始される。開幕戦で早々に表彰台を獲得すると、その年は最終的に3勝を挙げた。

 21年には「2021年をもって参戦終了する」という衝撃的な発表をし、Wタイトルを目指し最後の戦いを繰り広げている。

 

≪まとめ≫

 

 さて、わかる限りの参戦実績や計画をかいつまんでまとめてみましたがいかがでしたでしょうか。まとめてみて個人的に感じたことは

 

・日本のF1参戦におけるホンダの存在感

・バブル期における驚異的なF1参戦及び計画の数

・全ての日本製フル参戦メーカーエンジンを経験した“ジョーダン”

 

というところでしょうか。

 

改めて、ホンダの偉大さを感じることとなりました。

 

さて、そのホンダが2021年を最後にF1参戦終了となりますと、再び日本メーカーやチームが参戦しない時代に突入します。その状況を打破してくれるメーカーあるいはチームが早々に現れることを期待したいですね。