2021年Twitterで呟いた小ネタまとめ

少し更新がご無沙汰になっていたので、今回はTwitterで呟いたモタスポ小ネタのまとめとその補足情報なんかを。

 

まぁ、基本的にはASB電子雑誌書店の「本日無料の1冊」に掲載される過去の雑誌記事の話がメインです。

 

1. 過去の筑波サーキット拡張計画(投稿2021/1/4)

 

 

1987年~、筑波サーキットの拡張計画があったという記事。

 

当初計画では現在の本コースバックストレート途中から、隣にあるTC1000やジムカーナ場の敷地を広く使い、再び本コースバックストレートに戻ることが出来る全長3.5kmのコースを計画していた。

 

だが、地権者の反対にあい計画を変更。結果的に新コースは敷地を縮小したうえでTC1000とジムカーナ場となり、本コースとは繋げない形となった。

 

2. JGTC GT500へ参戦計画があった車たち(投稿2021/2/8.12)

 

 

 

1995年にル・マン24時間耐久レースを勝利したマクラーレンF1 GTRをGT界の名門チームだったタイサンがJGTCに投入する計画があったという記事。

 

結果的に「既存GTカーとあまりにパフォーマンスが違う」ので自粛としてタイサンはF1 GTRでの参戦を見送ったが、96年にその言葉が現実のものとなってしまう。

 

MR2は300クラスでは2度のタイトルを獲得しているが、1997年にGT500クラスへの参戦計画が存在していた。

 

計画をしていたのは当時ポルシェで300クラスに挑戦していたコブラレーシングで、MR2を2台、ランドクルーザー用のNA3.4lエンジンを尾川自動車でチューン、最高400psで車重は1050kg設定で投入を計画していた。

 

3. F1で日本人が5人グリッドに揃っていたかもしれない話(投稿2021/7/22)

 

 

1995年、F1には3人の日本人ドライバーが参戦していた。

 

ティレルから片山右京、フットワークから井上隆智穂、リジェからは6戦のみとなってしまったが鈴木亜久里の3名だ。

 

しかし、パシフィックGPに向けてさらに2人の日本人が参戦に向けてチームと契約を結んでいた。

 

フォルティから野田英樹、パシフィックから山本勝巳である。

 

結果的にFIAスーパーライセンスの発給を許可せず幻に終わったが、仮に現実となっていた場合、日本人が5人グリッドにつくという今現在まで起こりえない状態になるはずだった。

 

f:id:ksk_kagami:20210911151021p:plain

1995年パシフィックGPの決勝結果を加工したもの。もしかしたらこうなっていたかも(出典元はwiki

 

4. 参戦期間の内半分を日本製エンジンと共にした「ジョーダン・グランプリ」(投稿2021/8/12)

 

 

ふと、調べたら「ジョーダン・グランプリ」ってF1での14年間の活動期間の内7年もの間日本製エンジンと仕事してるんですよね。

 

そして、フル参戦を達成している日本のすべてのエンジンメーカーと手を組んでいるという。

 

===========================

 

というわけで、いくつか小ネタをまとめておきました。

 

次投稿するネタは考え中です。

日本のF1参戦の歴史 ~チーム・エンジンメーカー編~ (1962-2021 概略)

≪前口上≫ ドライバーよりもハードルの高い「チーム」「エンジン」参戦

 

以前、日本人F1ドライバー参戦の歴史を簡単にまとめさせていただいたが、今回はチームやエンジンメーカーといった形での参戦の歴史をまとめてみた。あくまで個人的に把握できている分だけとなるのでその点はご了承いただきたい。

 

この後の文章がだいぶ長くなったので前置きはここまでとして……。

 

 

おおよその年表は以下より

1.ホンダの挑戦 -ホンダ第1期-(1962-1968)

■主な参戦チーム:

ホンダ(予選最高位:1位[1回] 決勝最高位:1位[2勝])

■主な参戦エンジンメーカー:

ホンダ(予選最高位:1位[1回] 決勝最高位:1位[2勝])

f:id:ksk_kagami:20210725141337j:plain

ホンダRA272はホンダ初勝利のマシン

f:id:ksk_kagami:20210725143403j:plain

ホンダRA301は初のポールポジションを獲得する

 

 日本で初めてF1へ参戦を開始したのはホンダである。

 参戦計画は1962年に正式に発表され、当初は当時の有力チームであったブラバムロータスへの供給という形でエンジンの開発を行っていた。そしてロータスへの供給が決まったかと思いきや、開幕直前の1964年2月に提携破棄を通告される。

 そこからホンダはすべて自前で参戦を行うことになる。エンジン開発の為にRA270というテスト車両があったが、全く新しいRA271を製作し1964年8月、ドイツGPからF1の世界へと乗り込んでいく。

 翌年にはRA272を投入、初勝利を収めます。その後1967年にも1勝、第1期最終年の1968年には初のポールポジションを獲得し、5年間の参戦を終了した。

 

2.マキとコジマ -キットカー時代の挑戦者-(1974-1977)

■主な参戦チーム:

マキ / 予選最高位:25位 決勝最高位:-[未出走]

コジマ / 予選最高位:10位 決勝最高位:11位

ヒーローズレーシング / 予選最高位:11位 決勝最高位:11位

メイリツレーシング / 予選最高位:22位 決勝最高位:9位

■主な参戦エンジン:なし

f:id:ksk_kagami:20210725142042j:plain

マキF101は第1期ホンダ撤退後に現れた最初の日本製F1マシンだ

f:id:ksk_kagami:20210725141811j:plain

コジマKE007は予選で好走するも結果は残すことが出来なかった

 

 

 ホンダの参戦終了から暫くF1に挑戦する日本チーム等はなかったが、1974年に謎の日本チーム「マキ」が参戦を発表し、同年欧州での2戦に参戦をする。シャシーはオリジナルでエンジンはコスワースだ。結果的に75年オランダで鮒子田寛が予選25位をマークしたのが最高位で、決勝には未出走に終わっている。

 76年からはF1が富士スピードウェイで初開催。日本人や日本エントラントが果敢に挑んだ。コジマは前述のマキから分裂する形で発生したコンストラクターで、こちらもオリジナルシャシーコスワース製のエンジンを搭載し、予選では“幻のスーパーラップ”を叩き出す力を魅せた。

 同年に当時国内有数のレーシングチームであったヒーローズレーシングがティレル007を購入して星野一義がドライブ、翌76年はコジマKE009を駆って参戦した。同76年はメイリツレーシングが高橋国光と共に中古のティレル007で参戦し9位完走という結果を残した。

 

3. F1バブル到来(1981-2000)

3-1.黄金時代とその継承 -ホンダ第2期と無限ホンダ-

■主な参戦チーム(カッコ内はホンダ及び無限ホンダエンジン供給期間):

ウィリアムズ(ホンダ:83年最終戦~87年) / 予選最高位:1位[19回] 決勝最高位:1位[23勝]ドライバーズタイトル:1回、コンストラクターズタイトル:2回

ロータス(ホンダ:87~88年、無限ホンダ:94年) / 予選最高位:1位[1回] 決勝最高位:1位[2勝]※全てロータス・ホンダ時代の最高成績

マクラーレン(ホンダ:89~92年) / 予選最高位:1位[53回] 決勝最高位:1位[44勝]ドライバーズタイトル:4回、コンストラクターズタイトル:4回

リジェ/プロスト(無限ホンダ:95~97年) / 予選最高位:3位 決勝最高位:1位[1勝]

ジョーダン(無限ホンダ:98~00年) / 予選最高位:1位 決勝最高位:1位[3勝]

■主な参戦エンジンメーカー:

ホンダ(予選最高位:1位[73回] 決勝最高位:1位[69勝])

無限ホンダ(予選最高位:1位[1回] 決勝最高位:1位[4勝])

f:id:ksk_kagami:20210725143858j:plain

Williams FW10は第2期ホンダの初期に3勝を挙げた

f:id:ksk_kagami:20210725142911j:plain

McLaren MP4/6は今現在最後のホンダエンジンによるチャンピオンマシンだ

 

 ここまで各時代の紹介をしてきたが、バブル期は同時期に複数のF1参戦や計画があったため、ある程度まとめたうえで紹介していこうと思う。

 

 まずはホンダ第2期とそのエンジンを引き継いだ無限から。

 ホンダは80年代にヨーロッパF2にエンジンを供給。勝ち星を重ね、ついに83年にスピリットへ供給という形でF1へカムバックする。同年最終戦にはウィリアムズへと供給先を変更し、その後もロータスマクラーレンティレルと計5チームへの供給を行い、69勝とドライバーズタイトル5回とコンストラクターズタイトル6回を獲得します。

 ホンダは92年をもって再度活動を停止。その中89~91年にホンダが供給したV10エンジンをもとに無限ホンダが92年からフットワークに供給する形で参戦を開始する。

 無限自体は87年頃から独自でV8エンジンでのF1参戦を計画しており、レイナード製のF3000シャシーをベースにしたテストモデルやティレル018シャシーを使いテストを行っていたが、結果的に前述通りホンダV10を引き継いで開発を行うこととなる。

 無限はその後ロータス、リジェ(97年はプロスト)、ジョーダンへ供給を行い、97年にはプロストが雨のモナコで無限にとっての初勝利を収めると、ジョーダンでは98年に1-2フィニッシュ、99年は2勝1PPを挙げ、ドライバーズタイトルを争う活躍をみせた。

 

 

3-2.「技術力の証明」という名の挑戦 -日本メーカーのエンジン開発-

■主な参戦チーム(カッコ内は日本メーカー製エンジン供給期間):

コローニ(スバル:1990年) / 予選最高位:(予備予選不通過)

ティレルヤマハ:1993-96年) / 予選最高位:3位 決勝最高位:3位

アロウズヤマハ:1997年) / 予選最高位:3位 決勝最高位:2位

 

■主な参戦エンジンメーカー:

スバル(予備予選不通過)

ヤマハ(予選最高位:3位 決勝最高位:2位)

 

■エンジン開発をしていたメーカー

トヨタロータスからV6ターボエンジンの開発協力があったとみられる

いすゞ:社内プロジェクトとしてV12エンジンを開発。ロータスに搭載しテスト

HKS:V12エンジンを開発。F3000シャシーに搭載し国内テスト

スズキ:レイトンハウスと提携する計画があり、96年までに3型式を製作

 

 

 バブル期には多くの自動車メーカーが自らの技術を試すためにF1エンジンを開発していた。

 まずは実際にF1マシンに搭載されたメーカーから紹介したい。

 スバルは1989年にスーパーカー開発から派生して「究極の水平対向エンジンを作る」ことを目標に、イタリアはモトーリ・モデルニ社と共にF1用エンジンの開発を開始することになる。90年にはモトーリ・モデルニ社と関係が深いミナルディのマシンに搭載され実走テストを繰り返したが、ミナルディは実戦投入を断念。91年にようやっとコローニのマシンに搭載された。が、予備予選通過すらままならず91年を走り切ることなくF1を去っていった。

 90年からザクスピードへV8ターボエンジンを供給したのはヤマハだ。その年は予備予選通過すらままならず、決勝進出はわずか2回と惨憺たる成績だったが、翌年1年を開発期間に据えV12エンジンを開発、ブラバムと戦いポイント獲得も出来る戦闘力を得た。翌年にジョーダンへ、93年からはV10エンジンに切り替えティレルアロウズに供給をした。最終的に勝利には手が届かなかったが、97年には予選3位、決勝ではあわや優勝の2位を記録した。

 いすゞは自社の技術力の確認の為F1エンジンの開発を行った。完成したのちに運よくロータスとつながりが持て、1991年シルバーストンで102Cの車体に搭載して実走テストまで行い、関係者が高い評価を与える結果となった。だが、あくまで技術レベルの確認ということもあり、このテストをもってプロジェクトは終了となった。

 

 この時期、エンジン開発はされたがF1マシンに搭載されなかったものも多くある。

 まずはトヨタ。1981年前後にロータスと関係を持ち、ターボエンジンの開発依頼があったとされている。開発には時間が要しいくつかのエンジンが完成してはいたが、マシンに搭載されることはなかった。

 次にHKS。こちらは1990年に完全オリジナルでV12エンジンの製作を開始。91年には完成し、F3000マシンを改造した車体に搭載し日本国内でテスト走行や発表会などを行ったが、F1チームとの契約には至らなかった。

 最後にスズキ。91年にレイトンハウスと繋がりを持ち、ダンパーなどの技術協力を開始。最終的にはスズキへチームを譲る構想まで立てられており、スズキも数億円規模の開発設備を建設し、V12エンジンの開発に着手していた。だが、レイトンハウス社長逮捕で計画は霧散。スズキは96年まで実戦可能レベルのエンジンの開発を続けるも、最終的に実走テストが叶わぬまま計画は終了した。

 

3-3.チームオーナーとしてF1へ -泡沫のチームオーナー達-

■主なチーム

レイトンハウス(1989~91年)

ブラバム(1990~92年:ミッドブリッジレーシング)

ラルース(1990~91年:エスポ、1992年:セントラルパーク)

フットワーク(1991~93年)

f:id:ksk_kagami:20210725143206j:plain

日本系企業が支援をしていたラルース(手前がLC92、奥がLC91)

 バブル期には日本人がチームを買収しオーナーになることもあった。

 レイトンハウスは、1987年に名門コンストラクターであるマーチと提携しF1へ進出。89年にはチームを買収し、赤城明氏がオーナーに。成績も向上していった。

 ブラバムは1990年に日本人実業家の中内康児氏が率いるミドルブリッジが運営を行うこととなり、以後日本企業のスポンサーが増えていった。

 ラルースは90年に日本企業のエスポが株式を取得し、伊東和夫氏がオーナーになるが翌91年末に破産。92年に事業再生を受けることになり、フランス高級自動車メーカーのヴェンチュリーと共に、日本企業のセントラルパークが株式を取得した。

 フットワークは1990年にアロウズのスポンサーとなると翌年にはチームを買収。92年には無限ホンダエンジンと鈴木亜久里を獲得した。

 

 しかしながら、いずれも91年以降のバブル崩壊の影響で企業の業績が悪化。僅かな期間でチームを手放すことになった。

 

 

3-4.国産シャシーコンストラクターの届かなかった挑戦

 エンジンやオーナーに限らず、この時期にはシャシーコンストラクターにもF1挑戦の夢がすぐ目の前に存在していた。

 有名なところで言えば童夢であろう。94年に計画の発表をすると無限エンジン搭載を前提にF105が開発され、国内でテストが繰り返された。だが、ホンダがF1復帰を決めると状況が一変、無限エンジンの搭載も難しくなり参戦計画に暗雲が立ち込めるようになった。

 海外コンソーシアムとの協力や既存F1チームへのシャシー提供などを模索したが98年にプロジェクトは静かに幕を降ろした。

 次にトムスが有名だろう。92年に自身のチームからの参戦を目論んだアラン・プロストとデザイナー、ジョン・バーナードによりトヨタエンジン獲得の為に関係の深いトムスをF1チームとして参戦させる計画が発端だが、その計画はトヨタが断った為早々に頓挫した。

 だが、すぐ翌年に今度はトムスが独自でF1参戦を企画。011Fシャシースケールモデルの製作とフォードHBエンジンを搭載するまでは決まっていたが、肝心のスポンサーが集まらず計画は中止を余儀なくされた。

 あまり知られていないところで言えば、ムーンクラフトもフットワークやヤマハと共に参戦する計画の下、1987~1990年にかけてF1用シャシーの開発(最終形としてMC-050)を、92年にはトレブロンという謎のコンストラクターが参戦計画を、94年にはかつて欧州で活躍した生沢徹が興したイクザワF1が英国で拠点を開設、リクルートをするなど行っていたがどれも陽の目を見ることはなかった。

 

 

4.ホンダの復帰とトヨタの挑戦(1998-2010)

■主な参戦チーム(カッコ内は日本製エンジン供給期間):

ジョーダン(ホンダ:01~02年、トヨタ:2005年) / 予選最高位:4位 決勝最高位:3位

BAR(ホンダ:00~05年) / 予選最高位:1位[2回] 決勝最高位:2位

ホンダ(06~08年) / 予選最高位:1位[1回] 決勝最高位:1位[1勝]

トヨタ(02~09年) / 予選最高位:1位[3回] 決勝最高位:2位

ウィリアムズ(トヨタ:07~09年) / 予選最高位:3位 決勝最高位:3位

スーパーアグリ(ホンダ:06~08年) / 予選最高位:10位 決勝最高位:6位

 

■主な参戦エンジンメーカー:

ホンダ(予選最高位:1位[3回] 決勝最高位:1位[1勝])

トヨタ(予選最高位:1位[3回] 決勝最高位:2位)

f:id:ksk_kagami:20210725143239j:plain

BAR006は第3期ホンダ初のポールポジションを獲得したマシン

 

 バブル崩壊後、日本企業はF1から離れつつある状態となった。そんな中、ホンダがF1へ復帰の動きを見せる。まずは98年にRA099というテストマシンが用意され、99年には公式テストにも参加。フルワークス参戦間近と伝えられた。しかし、社内での様々な動きからエンジン供給のみに変更され、BARへの供給が2000年から開始された。

 その後、無限ホンダエンジンの供給を受けていたジョーダンや鈴木亜久里の立ち上げたスーパーアグリにエンジンを供給。06年にはBARの株式を取得しホンダフルワークスとしての参戦に移行。その年に1勝を挙げた。

 しかし、翌年以降は成績が低迷。08年も成績は低空飛行を続け、早々に09年用のRA109の開発を進めていたが、経済状況の悪化から08年末に撤退。当時チーム代表のロス・ブラウンにチームを売却した。09年用に開発されたRA109はブラウンGPのBGP001として09年を走り、Wタイトルを収める活躍をみせた。

 トヨタは99年にF1参戦表明をすると、テストカーTF101を01年に発表した後に各地のGPサーキットでテスト走行を行い、翌02年から本格参戦を開始する。

 05年、08年、09年では特に好走を見せ表彰台を13回獲得したが、勝利を手にすることはなく、09年末に経済状況の悪化から撤退を余儀なくされた。こちらも翌年用にTF110を開発していたが、こちらはその後使用されることはなかった。

 エンジン供給としては05年にジョーダン、翌06年にはMF1。07~09年はウィリアムズへ供給。ジョーダンで1回、ウィリアムズで3回の表彰台を獲得した。

 

 久々の日本初のプライベーターとして参加したのはスーパーアグリだ。ホンダの強力なバックアップの下、06年に突貫で作ったSA05(4年落ちのアロウズA23がベース)で参戦を開始すると、翌07年は開幕戦で予選10位、決勝6位の記録を残した。しかし、慢性的な資金不足に苦しみ、最後はチーム売却交渉も不成立に終わり08年途中で撤退を決めた。

 

 また、この時期には一つ未成に終わった参戦計画もあった。ディレクシブだ。当初はBARの買収を企て、最終的にマクラーレンのセカンドチームとして参戦を目指すもエントリー申請で落選。その後、急速にレース活動から撤退していった。

 

 5.ホンダ、最後の挑戦(2015-2021)

■主な参戦チーム(カッコ内はホンダ及び無限ホンダエンジン供給期間):

マクラーレン(ホンダ:2015~17年) / 予選最高位:3位 決勝最高位:5位

トロ・ロッソ(アルファタウリ)(ホンダ:2018~21年) / (予選最高位:4位 決勝最高位:1位[1勝])

レッドブル(ホンダ:2019~21年) / (予選最高位:1位[8回] 決勝最高位:1位[11勝])

※2021/7/24時点のデータ

 

■主な参戦エンジンメーカー:

ホンダ(予選最高位:1位[3回] 決勝最高位:1位[12勝])

※2021/7/24時点のデータ

f:id:ksk_kagami:20210725143255j:plain

McLaren MP4-30は第4期ホンダ最初のマシンである

f:id:ksk_kagami:20210725153207j:plain

RB15は第4期ホンダとして初優勝を達成したマシン。通算3勝を達成する。

 

 2009年にトヨタがF1撤退を決めた後、エンジンメーカーやコンストラクターとしての日本の参戦はついに途絶えた。それは第2期ホンダがスピリットにエンジン供給を開始する前年の1982年以来のことだった。

 しかし、2015年にホンダがマクラーレンへとパワーユニット(以下PU)供給という形でF1にカムバックする。だが、PUの開発に苦戦し、マクラーレン側のゴタゴタにも巻き込まれる形で長期契約を双方合意の上で解除することに。

 そこに声をかけたのはレッドブル陣営だった。以前よりホンダと共闘したいと語っていたフランツ・トスト代表率いるトロ・ロッソへ18年にPU供給を開始すると、同年決勝最高位4位を出し、19年からはいよいよレッドブルへの供給も開始される。開幕戦で早々に表彰台を獲得すると、その年は最終的に3勝を挙げた。

 21年には「2021年をもって参戦終了する」という衝撃的な発表をし、Wタイトルを目指し最後の戦いを繰り広げている。

 

≪まとめ≫

 

 さて、わかる限りの参戦実績や計画をかいつまんでまとめてみましたがいかがでしたでしょうか。まとめてみて個人的に感じたことは

 

・日本のF1参戦におけるホンダの存在感

・バブル期における驚異的なF1参戦及び計画の数

・全ての日本製フル参戦メーカーエンジンを経験した“ジョーダン”

 

というところでしょうか。

 

改めて、ホンダの偉大さを感じることとなりました。

 

さて、そのホンダが2021年を最後にF1参戦終了となりますと、再び日本メーカーやチームが参戦しない時代に突入します。その状況を打破してくれるメーカーあるいはチームが早々に現れることを期待したいですね。

 

【F1】オールジャパンの幻~ヤマハの幻のF1計画~

今回はかつてF1にエンジンを供給していたメーカー「ヤマハ」のあまり知られていないF1計画をザックリまとめてみました。

 

 

◆フットワーク・スポーツ・レーシングチーム(91)

シャシー名   :MC050(?)
コンストラクター:フットワーク(ムーンクラフト
チーム     :フットワーク・スポーツ・レーシングチーム
エンジン    :ヤマハ
ドライバー   :鈴木亜久里

ヤマハのF1参戦は1989年のザクスピードへのエンジン供給が最初であったが、本来は違う形でF1へステップアップを果たす計画があった。

それは、1987年に全日本F3000選手権に参戦していた由良拓也率いるレーシングコンストラクタームーンクラフトに資本介入し参画したフットワーク、当時有望株の日本人であった鈴木亜久里と共に、ムーンクラフトの社名を「フットワークフォーミュラ」としたうえで、オールジャパン体制でF1に打って出るというものであった。

当初の計画では、87年にオリジナルF3000シャシーの開発を行い、88年には全日本F3000を制覇。90年には国際F3000でもタイトルを獲得し91年にF1へ、というものであったとされている。

その当時、ヤマハもF1参戦を目標に1985年にF3000の前身である全日本F2選手権にOX66を投入・参戦を開始し、87年にはコスワースDFVをチューニング、5バルブ化したOX77を投入し、フットワークへも供給していた。

図らずも全日本F3000は88年を最後に5バルブが禁止されたこともあり、F1へ向かうという方向性は一致していた。


しかしながら、そのフットワークのF1戦略の第1弾としてムーンクラフトの開発したシャシー「MC030」は88年の開幕前のテストではまずまずの速さを見せたものの、開幕戦の予選で燃料トラブルに見舞われてしまう。


フットワークとヤマハは最初の目標である「全日本F3000の制覇」を優先し代替シャシーの使用を強く要請したため、開発のためにもMC030での走行を希望したムーンクラフトの意見は通らなかった。

結果として、開幕戦は代替シャシー マーチ87Bを駆り、最後尾から怒涛の追い上げを見せた鈴木亜久里が2位に入り、その後のシーズンも途中でレイナード88Dに切り替えるなどしつつもチャンピオン獲得となった。

その後、当初の計画は方向修正をすることとなり、それぞれの道を進みF1へと進出することになる。


ヤマハ鈴木亜久里と共に1989年にいち早くF1へ進出した。こちらも当初はコスワースとの提携という話もあったが、結果的には独自開発の5バルブヘッドのエンジンでの参戦となった。


ちなみに、フットワークは1年遅れの1990年にアロウズのスポンサーとしてF1へ進出。その後買収し、コンストラクターとして「フットワーク」の名をF1に掲げる。

シャシー開発などを担当したムーンクラフトはその後もじっくりと開発を続け、最終的に「MC050」というF1用シャシーの開発まで進むこととなったが、ついにF1に辿り着くことはなかった。社名は1990年にムーンクラフトに戻っている。


童夢ヤマハ(98)

シャシー名   :F105(?)
コンストラクター童夢
チーム     :童夢
エンジン    :ヤマハ
ドライバー   :片山右京

ヤマハのF1挑戦はザクスピードへの供給にはじまり、1年の開発期間を空けて1991年にブラバム、翌年にジョーダンにV12エンジンを、1993年から96年はティレル、97年にアロウズへとV10エンジンを供給する。

97年は優勝まであと一歩と近づき、98年もアロウズへエンジンの供給をすべく話を進めていたが、当時のアロウズのオーナーであるトム・ウォーキンショーが「とても飲めない条件」を突きつけたことにより、ヤマハアロウズとの関係を切り新たな供給先を探すことになる。


その選択肢の一つとして、当時F1参戦へ向けて大々的に動いていた童夢の存在があった。


ヤマハ童夢に対してエンジン供給とある程度のスポンサーの提供、さらにドライバーには片山右京を乗せてF1へ参戦しないか?という話をしていたという。


しかし、当時の童夢のF1プロジェクトは無限がエンジンを、童夢シャシーを開発するという形で進んでおり、実際開発車輌であったF105には当時F1に参戦していた無限ホンダのエンジンを搭載してテストが進められていた。


童夢の林はこのヤマハの提案に乗ることはなく、ヤマハは再びオールジャパンでのF1参戦のチャンスを手に入れることは出来ず、F1への供給も途絶えることとなってしまった。


不幸なことに、童夢はその数か月後に無限からのエンジン供給が難しくなったことでF1参戦の道が急速に遠のくこととなる。ホンダがF1への復帰を発表をすると無限の立場は大きく変わり、供給が難しくなってしまったのだ。

海外投資家や既存チームの買収などの策は巡らせたが、実現には至らず童夢のF1プロジェクトも98年をもって打ち切られることとなった。


◆終わりに

日本3つ目のF1エンジンメーカーのヤマハの歴史は実はオールジャパン計画にはじまり、オールジャパン計画に終わっていたという内容でした。

ヤマハによる幻のオールジャパン計画というタイトルではありますがどちらかといえばその主役は「フットワーク」や「童夢」とシャシーコンストラクターで、そこに偶然にも関わっていたというのが正確なところではあります。

この2つが現実になっていたらどうなっていたのか? 考えるとワクワクしてしまいますね。

 

●おまけ-1-
ヤマハの最大の敵はハート?

今回の件を調べている際に、ヤマハのF1計画の最大の障壁として度々名前が出てきたのが「ブライアン・ハート」。何の因果かF1参戦時にも障壁となり、撤退の一因にもなっている。


まず、F1参戦開始当時の話。

F3000まではコスワース製のエンジンをチューニング、5バルブヘッドを乗せて戦っており、F1もその延長で参戦を考えており提携の話もあった


だが、コスワースは89年からブライアン・ハートのエンジンを当時のフォード勢ワークス相当のチームであるベネトンに載せる話で進んでおり、ヤマハは独自でOX88エンジンの製作をすることになった。


そして、F1撤退の時の話である。

97年に当時供給先であるアロウズのオーナー、トム・ウォーキンショーはハートを買収し、98年にハート製のエンジンでF1参戦を画策する。ウォーキンショーはそのバッヂネームとしてヤマハを使うことを提案していたとのことだった。


無論、自社の技術をアピールするため参戦しているヤマハにとってはその条件を飲むことは出来ず、アロウズとの関係に終止符を打つこととなった。


●おまけ-2-
96年のフォルティへの供給の噂

1995年夏ごろに翌年のヤマハエンジン搭載を狙っているとして噂されていたのがフォルティであった。

フォルティは1995年にF1参戦を開始したチームで、ペドロ・ディニスによるスポンサーマネーでステップアップしたチームだったが、恐らくこの頃にはディニスが移籍の話を進めていたのだろう。

フォルティはエンジン獲得の為にシートの一つを日本人に与えることを考えており、当時インディーカーを戦っていたヒロ松下や、F1でラルースやシムテックなどと契約した野田英樹を起用する計画があったとかなかったとか……。


これは結局実現しなかったのだが、実現した場合、当時のフォルティのマシン(FG01)はとにかく重いことが知られていたため、軽量を武器にしていたヤマハエンジンが投入されたらどうなっていただろう……いや、それでも結果は変わらないだろうな……。


ちなみに、ペドロ・ディニスヤマハ最後のエンジンであるOX11を搭載したアロウズで97年を戦っている。


◆参考資料

◇参考文献
Racing on No.138 モンテカルロ・ラリー/オールホンダF1鈴鹿を走行(1993.03.15)
F1速報  1995 Rd10 ハンガリーGP号(1995.09.02)
Racing on Archives Vol.04 レーシングエンジン──パフォーマンスの追求とチューニングの美学(2011.05.10)
Racing on No.457[特集] 全日本F3000 芳醇なる季節 1987-1995(2012.02.01)
Racing on No.467[特集]ホンダF1”2.5期”の燭光(2013/6/1)
Racing on No.479F1 最熱狂期 ── “The Bubble” F1 ERA ─(2015.10.01)

◇参考WEBサイト
ムーンクラフト公式
https://www.mooncraft.jp/company/product/

【F1】供給エンジンメーカーの遍歴まとめ(1950-2021)

 この間、SUPER GTの参戦チーム遍歴まとめを作りましたが、今回はF1です。

 

……とはいってもチーム遍歴ではなく「供給エンジンメーカー」のものにしました。

 

(ちょっとは楽なので)

 

f:id:ksk_kagami:20210604204337p:plain



 ▼こちらPDFです。

 

色々と判断に困る個所もありました。

 

例えばホンダと無限ホンダとか、ペトロナスなどのバッジネーム系のエンジンとか。

今回は以下のくくりでまとめています。

 

1. 供給元が撤退等しており、そのエンジン契約を買い取った企業または開発の引継ぎを委託された企業より供給された場合は掲載。

例)メガトロン(BMW)、無限ホンダ(ホンダ)、スーパーテック等(ルノー

 

2. 供給元が並行して参戦を続け、型落ちエンジンをチューンしバッジネームをつけたものについては非記載

例)ペトロナス、エイサー(フェラーリ)、フォンドメタル、ヨーロピアン(フォード)

 

それでは個人的に気になった点をまとめてみました。

 

■供給年数ランキング

 

1位 フェラーリ 72年
2位 フォード(コスワース) 48年
3位 ルノー 40年 (スーパーテック時代を含めると43年)
4位 ホンダ 31年 (無限ホンダを含めると38年)
5位 メルセデス 30年
6位 BRM 23年
7位 BMW 21年
8位 Alfa-Romeo 20年
9位 マセラティ 19年
10位 クライマックス 13年
10位 ポルシェ(TAG含む)13年

 

F1の歴史と共にあるフェラーリはもちろん1位。2位にはキットカー時代やバブル期のチームをはじめ、2010年の新規参戦チームなど多くのプライベーターへも供給をしたフォード(コスワース)が48年で続きます。

 

3位はルノーで40年。1977年からターボエンジンの先駆者として参戦を開始後、2度のルノー本体の経営不振による撤退を挟みながらもウィリアムズやレッドブルと共闘して黄金期を作り上げ、ルノーワークスとしても05-06年にチャンピオンに輝きました。

 

4位はホンダで31年。1964年にオールホンダでF1に挑戦したのを皮切りに経営不振などの理由で3度の休止・撤退をしながらも、83-92年にはウィリアムズ、ロータスマクラーレンといった名門チームと共に優勝争いの常連となり、現在ではレッドブルと共にタイトル争いをしています。

 

5位はメルセデスで30年です。1930年代にGPへの参戦はあったものの、F1世界選手権としては1954年から2シーズンの参戦が最初。そこから約40年のブランクを経てザウバーに供給する形でF1へ復帰を果たします。90年代後半には提携先をマクラーレンへ変え、タイトル争いの常連へ。2010年にはワークスチームも持ち、常勝軍団となりました。

 

6位以降は選手権黎明期に供給していたメーカーが目立ちますね。

 

■最多メーカー/最少メーカーはいつ?

 

F1のグリッドに一番多くのメーカーのエンジンが並んでいたのは、また反対はいつ、そしていくつのメーカーだったのでしょうか。

 

年間で最も多くエンジンメーカーが存在したのは1952年で12メーカーです。

 

逆に年間で最も少なかったのは
・1974年(フェラーリ、フォード、BRM)
・2014年(フェラーリメルセデスルノー
の3メーカーでした。

 

さて、もっと注意深く見れば他にも面白いことが見えてくるかもしれませんね。

 

気になる点、というか「完全新規エンジンメーカーはトヨタが最後(2002-2009年)」なんですよね。

 

F1の歴史上10年に1度は完全新規のブランドが参戦を果たしていたのですが、トヨタの2002年以降20年近くどのメーカーもF1への挑戦をしようとしませんでした。

 

純粋に過去にそれだけ多くのブランドが参戦したからこれから参戦するブランドが無い可能性もありますが、F1のエンジンを作る壁がこの20年で高くなったと考えるのが自然な気がしますね。

 

【SUPER GT】GT300の参戦遍歴まとめてみたよ

 先日、SUPER GT GT500クラスの参戦遍歴をまとめたものをあげましたが

 

そしたら300クラスもやらな…、という感情に駆られ作成しました。

※スポット参戦の一部チームは非掲載。

※公式やWikiなどを参考にしてますが、入力者の勘違い等でミスがあるかもしれませんが、それはご容赦下さいませ。

f:id:ksk_kagami:20210430193952p:plain

 ▼こちらPDFです。A4 8枚分

 

まぁ、わかってはいましたが何がしんどいって500クラスに比べ参戦チーム数が段違いに多いのと泡沫チームも多いので分量がウン倍となりました。

 

さて、資料作りながら感じたことを適当に列挙していきます。

 

◆94年のJGTC開始当初から今現在まで継続参戦しているチームはゼロ

 

500クラスでは4チームがJGTC開始当初から参戦を継続していましたが、300クラスではそのようなチームはなく、

 

一番長くても95~18年(但し15年は不参加)まで参戦をしていたTEAM TAISAN で23年間となっています。

 

※私の作成した遍歴上ではTAISANの98年も空欄となっていますが、この年はつちやエンジニアリングとの共同参戦の為、ゼッケンを重視しつちやエンジニアリング側に掲載しております。

 

◆共同参戦の類が多い300クラス

 

遍歴制作の過程で大変だったのが「共同参戦」や「with~」のいうパターンの参戦経歴が多いのです。

 

前述のつちやエンジニアリングは98年にwith TEAM TAISAN Jr.として、99年はMOMOCORE(A'PEX) with TSUCHIYAとしてチームタイトル2連覇を達成し

 

直近ではPACIFIC RACINGが20年はD'stationレーシングと、21年はCARGUYレーシングとの共同参戦という形で参戦をしてます。

 

◆3桁ゼッケンの多い300クラス、最大値は…?

 

500クラスはチーム国光のゼッケン100が一番大きいゼッケンですが、300クラスにはそれ以上の数字がいくつも存在しています。

 

2021年シーズンには東名スポーツの360、Max Racingの244が参戦し、一番大きい数字となっています。

 

では、JGTC時代も含めて歴代で一番大きい数字のゼッケンは何かというと、2005年にA&S Racingが使用していた「913」だと思われます。

 

※一応規則上最大で999まで使用することは可能。

 

 

 

 

【SUPER GT】GT500の参戦遍歴まとめてみたよ

掲示板でF1の参戦遍歴を見たので、それをモチーフにSUPER GT(GT500)の参戦遍歴を作ってみました。

 

 主要チームと一部マイナーチームを載せています。

 

 

■創設当初からGT500(当初はGT1)に参戦し続けているチームは4チーム

25年以上の歴史となっているSUPER GTにおいて初年度から最高峰クラスに参戦しているチームは4チーム。日産陣営のIMPUL(当初はHOSHINO RACING)、NISMOトヨタ陣営のSARD。そして最初期はポルシェで参戦をしていたチーム国光です。

ちなみに、4チームともタイトル経験があります。IMPULは初年度、NISMOは計7度。またSARDは2016年、チーム国光も2018年に初戴冠と時間はかかりましたが悲願成就となりました。

 

プライベーターの戴冠は2度

今やメーカーありきのGT500クラスですが、かつて2度外国車を持ち込んだプライベーターによるチームチャンピオン獲得があります。

一つは黎明期にJGTCを盛り上げたTEAM TAISANで、総勢4台をGT1クラスにエントリーし1995年に達成しています。この時は、フェラーリF40、ポルシェ993GT2を投入していました。

もう一つは、チーム・ラーク・マクラーレンです。2台のマクラーレンF1 GTRを投入し、TAISANがタイトルを獲った翌年の1996年にドライバー・チームチャンピオン獲得となりました。

 

■別メーカーにスイッチしたのは3チーム

GTに参戦している間に別メーカーへスイッチした経験があるチームは、メーカー直結の類でいうと3チームある。

1つ目は初年度から参戦しているチーム国光で前述のとおりポルシェからホンダへとスイッチしています。

2つ目は同じく初年度から参戦をしていたチーム・ ルマンでGT参戦開始当初は日産系チームらしくフェアレディZを使用し参戦を開始。その後99年からトヨタスープラを使用しての参戦となりました。

3つ目はARTAで、こちらも当初は鈴木亜久里が日産のワークスドライバーを務めていた縁から、日産GT-R(R33)で参戦を開始。2年間戦うも、2000年からはホンダ陣営に移っています。

 

Castrolだらけの年

今回の表はなるべく当時のカラーリングに合わせて作ったのですが、カラーリングのチェック時に思いだしたこととして

スポンサーとしての「Castrol」の乱立時代があったことです。

よく言われるのが2000年で、日産に#2 Castrol nismo GT-Rトヨタに#36 #37 Castrol Tom's supra ホンダに#16 Castrol 無限 NSXの計4台がタイトルスポンサーにCastrolがつくことになりました。

別の意味で厄介だったのが1997年。トヨタの#36 #37 #38の計3台がカラーリングが全てCastrolの全く同じトリコロールだったため、いよいよゼッケンを見なければ判断が出来ないということもありました。

【F1】日本人F1ドライバーのデビューイヤー成績を比較してみた

いよいよ来週に迫った2021年のF1開幕に合わせて、久々に更新です。

 

今回は久々の日本人F1ドライバーである角田裕毅のデビューもあるので、歴代日本人F1ドライバーのデビューイヤー成績を比較し、角田裕毅への期待を書いてみようかと思います。

 

 

1. 歴代日本人のデビューイヤー比較~概略~

 

f:id:ksk_kagami:20210321123722j:plain

 

さっそく、上記の表に書き起こしてみました。

主要な成績を挙げると以下の通りです。

 

予選最高成績:7位(佐藤琢磨/日本GP)

決勝最高成績:3位(鈴木亜久里/日本GP)

表彰台獲得数:1回(鈴木亜久里/日本GP)

年間ポイント:32点(小林可夢偉

年間総合順位:12位(中嶋悟 / 鈴木亜久里 / 小林可夢偉

 

※注意

鈴木亜久里のデビューイヤーは本来89年(ザクスピード)ですが、実際に予選・決勝共に戦うことのできた90年を今回は参考としました。

 

予選最高成績は、佐藤琢磨の7位でそのほかは10位前後という結果でした。決勝結果については全員が10位以内の成績でしたが最高位は何といっても鈴木亜久里の3位表彰台です。

 

面白いことに両方とも日本GPがデビューイヤーの最高成績になっています。

 

年間総合順位はパイオニア中嶋悟がをはじめ、鈴木亜久里小林可夢偉が12位で初年度を終えているのが最高順位でした。

 

年間得点ではポイント制度の変化がある為比較は出来ませんが、小林可夢偉が32点を獲得して最高となっています。

 

2. 対チームメイト戦績

 

さて、日本人がデビューした時の対チームメイト成績も見てみましょう。

 

◆予選

f:id:ksk_kagami:20210321123821j:plain

 

予選成績は以上のとおり。

 

比較的ベテランドライバーや中堅ドライバーとチームメイトを組むことが多く、結果だけを見るとあまりいい成績には見えませんね。

 

ですが、小林可夢偉に関してはベテランチームメイト相手に予選成績で勝ち越すことに成功しています。

 

◆決勝

f:id:ksk_kagami:20210321123840j:plain

 

決勝の場合は以上のとおりで、対戦成績で見ると片山右京高木虎之介が年間成績ではチームメイトを上回っています。

 

予選でも好成績だった小林可夢偉に至ってはベテランドライバーを相手に最高順位も対戦成績でも勝つという結果を出しました。

 

3. 角田裕毅への期待

 

以上の日本人ドライバーのデビューイヤー成績を見たうえで、角田裕毅に期待する目標値はどのくらいがいいのでしょうか。

 

個人的な願望を書くと

 

・予選最高位7位以上 (メルセデスレッドブルフェラーリの下)

・決勝最高位4位 (鈴木亜久里の表彰台の次点、中嶋悟の成績と同等)

・対チームメイトは互角の成績

 

になってくれるととても嬉しいですね。

 

現実的な目標値で言うどこになるでしょうか。

 

・予選最高位10位以上

・決勝最高位5位

・対チームメイトは1/3勝てれば

 

でしょうか?

 

これまでの日本人以上に直下カテゴリーでの実績が高く、デビューチームも前年優勝経験のある予算も比較的あるチームという、これまでと比較しても好条件からデビューということもありいやがうえにも期待が高まりますね。