【F1】オールジャパンの幻~ヤマハの幻のF1計画~

今回はかつてF1にエンジンを供給していたメーカー「ヤマハ」のあまり知られていないF1計画をザックリまとめてみました。

 

 

◆フットワーク・スポーツ・レーシングチーム(91)

シャシー名   :MC050(?)
コンストラクター:フットワーク(ムーンクラフト
チーム     :フットワーク・スポーツ・レーシングチーム
エンジン    :ヤマハ
ドライバー   :鈴木亜久里

ヤマハのF1参戦は1989年のザクスピードへのエンジン供給が最初であったが、本来は違う形でF1へステップアップを果たす計画があった。

それは、1987年に全日本F3000選手権に参戦していた由良拓也率いるレーシングコンストラクタームーンクラフトに資本介入し参画したフットワーク、当時有望株の日本人であった鈴木亜久里と共に、ムーンクラフトの社名を「フットワークフォーミュラ」としたうえで、オールジャパン体制でF1に打って出るというものであった。

当初の計画では、87年にオリジナルF3000シャシーの開発を行い、88年には全日本F3000を制覇。90年には国際F3000でもタイトルを獲得し91年にF1へ、というものであったとされている。

その当時、ヤマハもF1参戦を目標に1985年にF3000の前身である全日本F2選手権にOX66を投入・参戦を開始し、87年にはコスワースDFVをチューニング、5バルブ化したOX77を投入し、フットワークへも供給していた。

図らずも全日本F3000は88年を最後に5バルブが禁止されたこともあり、F1へ向かうという方向性は一致していた。


しかしながら、そのフットワークのF1戦略の第1弾としてムーンクラフトの開発したシャシー「MC030」は88年の開幕前のテストではまずまずの速さを見せたものの、開幕戦の予選で燃料トラブルに見舞われてしまう。


フットワークとヤマハは最初の目標である「全日本F3000の制覇」を優先し代替シャシーの使用を強く要請したため、開発のためにもMC030での走行を希望したムーンクラフトの意見は通らなかった。

結果として、開幕戦は代替シャシー マーチ87Bを駆り、最後尾から怒涛の追い上げを見せた鈴木亜久里が2位に入り、その後のシーズンも途中でレイナード88Dに切り替えるなどしつつもチャンピオン獲得となった。

その後、当初の計画は方向修正をすることとなり、それぞれの道を進みF1へと進出することになる。


ヤマハ鈴木亜久里と共に1989年にいち早くF1へ進出した。こちらも当初はコスワースとの提携という話もあったが、結果的には独自開発の5バルブヘッドのエンジンでの参戦となった。


ちなみに、フットワークは1年遅れの1990年にアロウズのスポンサーとしてF1へ進出。その後買収し、コンストラクターとして「フットワーク」の名をF1に掲げる。

シャシー開発などを担当したムーンクラフトはその後もじっくりと開発を続け、最終的に「MC050」というF1用シャシーの開発まで進むこととなったが、ついにF1に辿り着くことはなかった。社名は1990年にムーンクラフトに戻っている。


童夢ヤマハ(98)

シャシー名   :F105(?)
コンストラクター童夢
チーム     :童夢
エンジン    :ヤマハ
ドライバー   :片山右京

ヤマハのF1挑戦はザクスピードへの供給にはじまり、1年の開発期間を空けて1991年にブラバム、翌年にジョーダンにV12エンジンを、1993年から96年はティレル、97年にアロウズへとV10エンジンを供給する。

97年は優勝まであと一歩と近づき、98年もアロウズへエンジンの供給をすべく話を進めていたが、当時のアロウズのオーナーであるトム・ウォーキンショーが「とても飲めない条件」を突きつけたことにより、ヤマハアロウズとの関係を切り新たな供給先を探すことになる。


その選択肢の一つとして、当時F1参戦へ向けて大々的に動いていた童夢の存在があった。


ヤマハ童夢に対してエンジン供給とある程度のスポンサーの提供、さらにドライバーには片山右京を乗せてF1へ参戦しないか?という話をしていたという。


しかし、当時の童夢のF1プロジェクトは無限がエンジンを、童夢シャシーを開発するという形で進んでおり、実際開発車輌であったF105には当時F1に参戦していた無限ホンダのエンジンを搭載してテストが進められていた。


童夢の林はこのヤマハの提案に乗ることはなく、ヤマハは再びオールジャパンでのF1参戦のチャンスを手に入れることは出来ず、F1への供給も途絶えることとなってしまった。


不幸なことに、童夢はその数か月後に無限からのエンジン供給が難しくなったことでF1参戦の道が急速に遠のくこととなる。ホンダがF1への復帰を発表をすると無限の立場は大きく変わり、供給が難しくなってしまったのだ。

海外投資家や既存チームの買収などの策は巡らせたが、実現には至らず童夢のF1プロジェクトも98年をもって打ち切られることとなった。


◆終わりに

日本3つ目のF1エンジンメーカーのヤマハの歴史は実はオールジャパン計画にはじまり、オールジャパン計画に終わっていたという内容でした。

ヤマハによる幻のオールジャパン計画というタイトルではありますがどちらかといえばその主役は「フットワーク」や「童夢」とシャシーコンストラクターで、そこに偶然にも関わっていたというのが正確なところではあります。

この2つが現実になっていたらどうなっていたのか? 考えるとワクワクしてしまいますね。

 

●おまけ-1-
ヤマハの最大の敵はハート?

今回の件を調べている際に、ヤマハのF1計画の最大の障壁として度々名前が出てきたのが「ブライアン・ハート」。何の因果かF1参戦時にも障壁となり、撤退の一因にもなっている。


まず、F1参戦開始当時の話。

F3000まではコスワース製のエンジンをチューニング、5バルブヘッドを乗せて戦っており、F1もその延長で参戦を考えており提携の話もあった


だが、コスワースは89年からブライアン・ハートのエンジンを当時のフォード勢ワークス相当のチームであるベネトンに載せる話で進んでおり、ヤマハは独自でOX88エンジンの製作をすることになった。


そして、F1撤退の時の話である。

97年に当時供給先であるアロウズのオーナー、トム・ウォーキンショーはハートを買収し、98年にハート製のエンジンでF1参戦を画策する。ウォーキンショーはそのバッヂネームとしてヤマハを使うことを提案していたとのことだった。


無論、自社の技術をアピールするため参戦しているヤマハにとってはその条件を飲むことは出来ず、アロウズとの関係に終止符を打つこととなった。


●おまけ-2-
96年のフォルティへの供給の噂

1995年夏ごろに翌年のヤマハエンジン搭載を狙っているとして噂されていたのがフォルティであった。

フォルティは1995年にF1参戦を開始したチームで、ペドロ・ディニスによるスポンサーマネーでステップアップしたチームだったが、恐らくこの頃にはディニスが移籍の話を進めていたのだろう。

フォルティはエンジン獲得の為にシートの一つを日本人に与えることを考えており、当時インディーカーを戦っていたヒロ松下や、F1でラルースやシムテックなどと契約した野田英樹を起用する計画があったとかなかったとか……。


これは結局実現しなかったのだが、実現した場合、当時のフォルティのマシン(FG01)はとにかく重いことが知られていたため、軽量を武器にしていたヤマハエンジンが投入されたらどうなっていただろう……いや、それでも結果は変わらないだろうな……。


ちなみに、ペドロ・ディニスヤマハ最後のエンジンであるOX11を搭載したアロウズで97年を戦っている。


◆参考資料

◇参考文献
Racing on No.138 モンテカルロ・ラリー/オールホンダF1鈴鹿を走行(1993.03.15)
F1速報  1995 Rd10 ハンガリーGP号(1995.09.02)
Racing on Archives Vol.04 レーシングエンジン──パフォーマンスの追求とチューニングの美学(2011.05.10)
Racing on No.457[特集] 全日本F3000 芳醇なる季節 1987-1995(2012.02.01)
Racing on No.467[特集]ホンダF1”2.5期”の燭光(2013/6/1)
Racing on No.479F1 最熱狂期 ── “The Bubble” F1 ERA ─(2015.10.01)

◇参考WEBサイト
ムーンクラフト公式
https://www.mooncraft.jp/company/product/