【F1】幻に終わった日本のF1計画~コンストラクター編~

日本における幻のF1計画

 

 ここ最近、幻の計画を追うのが個人的にブームとなりつつあります。

 

 直近のブログは全てそんな内容でしたしね(日本人のベネトン入り、SSCC開催計画、スズキF1)

 

 さて、今回は個人の備忘録としての意味合いが強いですが

 

「幻に終わった日本のF1チーム」

 

 のザックリとしたまとめを書いてみようと思います。

 

 少なくともRacing on等をベースに書いてあるので、ウィキペディアより内容を持たせて、ソースもはっきりしているつもりです(ディレクシブは除く)

 

トラサルディ(ミドルブリッジ)(1987)

 

 1987年に、当時F3000に参戦していたミドルブリッジ・レーシングがエントリーを行い、後に却下されている。

 その内容というのが87年の終盤戦に参戦開始を目標とし、エントリーはベネトンの3台目として、マシンは86年型のベネトンB186、エンジンはBMW直4ターボを使用。スポンサーにはイタリアのアパレル「トラサルディ アクション」。88年の計画も同時に発表されており、87年同様ベネトンの3台目としてエントリー、車両はB188を用いる予定だった。無論、そんなエントリーは通るわけもなかったが……。

 ドライバーには当初、全日本F3000で活躍していた鈴木亜久里が起用される予定だったが、「亜久里の周囲の協力者たちの多くが疑問を抱いた」ため、イギリスでのテスト直前に中止、亜久里起用も白紙となった。

 最終的には国際F3000に参戦していたエマニュエル・ピロを起用するはずだった。

 

フットワーク・スポーツ・レーシング(1988)

 

 フットワークといえば、アロウズを買収してF1にすでに参戦したが?と思うかもしれないが、それとは別に国内のコンストラクタームーンクラフトをはじめ、ヤマハ鈴木亜久里も含めたオールジャパンでの参戦構想が存在していた。

 その計画は87年にムーンクラフトによるF3000オリジナルシャシーの開発、88年に全日本F3000を制覇、90年に国際F3000でも成果を上げて91年にはF1参戦というものだった。

 しかしながら88年に全日本制覇をすべく投入されたMC030が開幕戦の予選でトラブルが発生し、開発の為にMC030で走ることを望むムーンクラフトとまずは結果が必要と代替シャシーでの参戦に切り替えるべきというスポンサー、ヤマハ陣営とで対立。結果的にマーチ87Bで開幕戦を戦い、その後レイナード88Dへ切り替え鈴木亜久里がその年の全日本F3000を制することになる。

 それが起因となってか、4者は別々の道を進むこととなる。鈴木亜久里は88年にF1日本GPにスポット参戦、ヤマハは89年に亜久里と共にザクスピードからF1を戦うことを選択する。フットワークは90年にアロウズを買収しF1の舞台へ駒を進めた。ムーンクラフトはその後もシャシー開発を継続し、最終的にMC060モノコックを製作したが、ついにF1への扉は開かなかった。

 

レブロン・レーシング・システムズ(1992)

 

 1992年に赤坂プリンスホテルで会見を行い、参戦計画を発表した「トレブロン」は「既成概念を打ち破るハイテクF1の開発」を掲げたが、ジャッドV8を使用することと、風洞モデルではないイメージイラストをモデル化したものを見せただけにとどまった。結果的にその計画は静かに消えていった。

 

トムス(1992~95)

 

 1992年にはトヨタのワークスチームという立ち位置になっていたトムスにもF1参戦の動きがあった。

 1992年にはアラン・プロスト、ジョン・バーナードがトムスを通じてトヨタエンジン獲得を目論んで接近していた。しかし、シャシーを見てから判断したいトヨタとエンジンが先だと譲らないバーナードとで平行線となり、計画は流れてしまう。

 しかし、その翌年には新たなF1計画が持ち上がる。今度はフランク・コパックを雇いオリジナルで参戦を果たすというものだった。実際に93年にはビッグ・フォーミュラでの経験を積むために全日本及び国際F3000へ参戦。

 計画はかなり具体的なところまでまとまり、最初のマシン「011F」の25%風洞スケールモデルも制作された。エンジンは市販のフォードHB搭載で交渉が進められており、あとはスポンサーが集まれば、というところまで来ていたが結実しなかった。

 当時はトヨタブリヂストンとの関係も噂されていたようだが、一切なかったという。

 

イクザワF1(1994)

 

 日本レース界の黎明期に渡欧し、当時としてF1に最接近したドライバーの一人として知られる生沢徹も、自身のF1チームで参戦を計画していた。

 イギリスのエセックス州に拠点を開設。元ウィリアムズのピーター・ウィンザーや元フェラーリエンリケ・スカラブローニを迎え入れ、スタッフの公募も行っておりその計画は具体的に進行していた。車体についてもスケッチが存在する等していたが、この情報が漏れ伝わった当時は「まだオープンにできる話はない」としていた。

 しかし、バブルの終焉と1995年1月の阪神・淡路大震災により全ての計画に終止符が打たれることとなった。

 

童夢(1994-00)

 

 ル・マンに長年参戦していた童夢だが、1990年代を前にル・マンからフォーミュラへとその活動をシフトし、1987年から全日本F3000に参戦、翌年には自社開発の車両を用いて、94年には全日本F3000のタイトル獲得に至った。

 その水面下で動いていたF1プロジェクトは、96年に無限ホンダエンジンを供給されることが発表されるとともに表に出るようになる。テストマシンF105は97年から参戦開始を目標に国内主要サーキットでテストを繰り返したが、日本企業からの支援は一向に集まらず時ばかりが過ぎた。98年にはホンダが第3期F1計画の発表によりいよいよホンダから支援を受けられる可能性も閉ざされてしまう。

 ホンダの発表前にはヤマハ接触し、片山右京を乗せF1への参戦を提案していたが、無限との絡みもあり話は実現しなかった。

 他にもミナルディを買収して参戦という噂も出たり、97年にはマリク王子が99年からの参戦に向け交渉を持ちかけたり、オランダ企業のコンソーシアムとの話し合いがもたれたりしたが(こちらは、エンジンはコスワース、破綻の危機にあったプロストと手を組むというところまで話がついていた)、実現には至らなかった。

 

ディレクシブ(2005年)

 

 当時突然現れて国内トップカテゴリーからGP2までスポンサーやチーム所有などの動きを見せていたディレクシブ。2005年に最初のF1へのアプローチを行っていた。その内容は、鈴木亜久里に資金援助を約束し、亜久里はホンダに対し当時F1に参戦していたB.A.Rチームの買収・共同運営の提案をしたというものだが、ホンダがディレクシブの経営実態を怪しみ拒否。

 その後にマクラーレンへのスポンサー、業務・技術提携を行い、その流れからマクラーレンのBチームとしてF1参戦が噂されるようになる。

 2006年にはF1新規エントリーの申請を行うも落選。それを期にディレクシブは急速にモータースポーツから姿を消した。

 ちなみに、噂が現実となっていればドライバーには当時マクラーレンのテストドライバーだったペドロ・デ・ラ・ロサゲイリー・パフェットルイス・ハミルトンが候補であり、ジャン・アレジがディレクターとして就任する可能性があった。

 

============================

 

なぜ、実現できなかったのか?

 

 私が現在まとめたのは以上なのですが、水面下で蠢いていた計画はほかにもあったかもしれない。

 

 これらの計画ですが、なぜ実現できなかったかを見るとそのおおよそがスポンサー集めに苦戦したものであるよう。

 

 トムスに関しては当時、日本企業の獲得に苦戦していたようで「日本チームとして出場したいのに、日の丸を掲げないでくれと言われた」ことさえあったという。

 

 バブルで多くの企業が世界に進出した結果、すでに国際ブランドとしてやっているのに今更日本の国旗を出すのも…、という反応があったらしい。

 

 童夢については幾つもの選択肢があった。特に無限×童夢のプロジェクトから、ヤマハに切り替えることとプロストと提携をしプロスト童夢コスワースとして参戦することについてはかなり現実味を帯びた話だった。

 

 しかし前者は無限と共に始動した計画ということもあり、遅々として進まずとも手を切ることは出来なかった(が、その数か月後に出資者のホンダが第3期計画を打ち出したため消滅)

 

 後者はエンジンを決めるまでに時間がかかり、出資者が離れてしまったことが原因だった。

 

 また、資金的な問題以外では参戦計画自体に難があったものもある。筆頭はトラサルディだろう。そして、謎多きトレブロンディレクシブ

 

 そして、計画の途中で方向性が分裂したのがフットワークといったところか。

 

 

 …というわけで、こういった幻の計画がありましたよ、ということを書いただけの内容です。

 

 個人的には童夢ヤマハ/片山右京 は見てみたかった気はしますね。あとはフットワーク・ヤマハ/鈴木亜久里 も。トムス・フォードも実際に車が出来てテストまでいったらどうなったか…、キリがないですね(汗