2つの青が交わる時 ~スズキF1計画についてのまとめ~

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≪前口上≫ 

 

 2020年に創業100周年という節目を迎える日本の自動車メーカーがある。

 スズキ株式会社だ。

 今や軽自動車やコンパクトカーとしてのイメージが強い会社ではあるが、モータースポーツにも多く関与していた。といってもその多くは、市販車をベースにしたラリー部門や共通パーツを多用したジュニアフォーミュラなどがその主なものである。

 しかし、日本がバブルに沸き、スバルやいすゞ、チューニングパーツメーカーのHKSが自らの技術力を試すためにF1エンジンを製作していた頃、人知れずスズキもF1エンジンを製作し、また当時日本人がオーナーを務めていたF1チーム、レイトンハウスと関わりがあったことは大きく取り上げられてはいない。

 今回は、そんなスズキがF1にどのような関与をしていたかを、当時スズキの社員として計画に関わっていた横内悦夫氏の回想録「紺碧の天空を仰いで」から抜粋した内容を交えつつ振り返ってみたい。

 

開発の開始とレイトンハウスへの接触

 

 1991年1月。横内氏のもとにスズキの上層部から「F1エンジンの開発をしてくれないか」という依頼があった。

 その何年か前から会長である鈴木修氏がFIAの要人について話題にあげ、将来F1をやるような時の為に繋いでおいた方が良い、という旨の話をとある会合でされていたということもあり、将来的にF1に参戦をやりたいと会長は考えていたのではないか、と横内氏は当時のことを回想している。

 すでに上層部で話がまとまっていたのか、数日後にはとある知り合いを通じてレイトンハウスの関係者を紹介され、1月の中旬にレイトンハウスの工場見学とポール・リカールでの合同テストへの見学ととんとん拍子で話が進んでいく。

 テストへの見学は専門誌に報じられ「イルモアにスズキかいすゞ」という見出しで、当時インディーカーにイルモアエンジンがシボレーのバッジで参戦したように、この年レイトンハウスに搭載されていたイルモアエンジンにもスズキ(もしくは当時社内プロジェクトでエンジンを製作していたいすゞ)がバッジネームとしてF1に登場するのでは?と噂された。その記事には、当時のドライバー、マウリシオ・グージェルミンのエンジニアとして加入したジョン・ジェントリーが過去2年間スズキの500㏄2輪GPチームのエンジニアとして関わっていたことについても触れている。

 

レイトンハウスを速い車に

 

 1991年5月。スズキの本社がある浜松にレイトンハウスのオーナー赤城明氏とエンジニアを務めていたグスタフ・ブルナーを含む数人が来日した。

目的はいくつかのパーツの製造依頼だった。内容としては「ショックユニットの改良品」「効率の良いラジエーター」「耐久性のあるギアボックス」の3つであった。

 さっそく翌日にはチーム幹部と共に岐阜にあるカヤバ工業の工場へ向かいショックユニットの製造を打診。チーム側が6月初旬の合同テストで試したいと要望をしたため難色を示したが、横内氏は強く説得しカヤバ工業側もこれを承諾。実質1週間で2台分+スペア4本の計12本が用意されることとなった。

 このショックユニットはテストを経てさっそく第6戦フランスGPから使用され、グージェルミンは使用後に「ソフト感が出て乗り易くなった」と語ったという。

 レイトンハウスが求めた残りの二つ、ラジエーターとギアボックスについては、ラジエーターはデンソーに手配をしていたが(91年7月ごろ納入)、同時にチームに「ラジエーターに当たる風量が少なく、風の出も悪いのでサイドポンツーンの改良を」提案するも、それはことごとく断られたそうだ。ギアボックスについては「現段階では毎回新品に取り変えるのが最善策」と伝えたという。

 

YR91の開発の開始

 

 1991年7月。レイトンハウスへの技術協力をする一方、スズキとしてのF1エンジン開発が着々と進められており、設計検討に入っていた。

 コンセプトとしては「軽量・小型」であり、現地でのレース観戦からV型12気筒エンジンとすることに決定した。目標はホンダV12とルノーV10の長所を併せ持つ軽量で低重心のエンジンで、3500㏄60度V型12気筒、ボア×ストローク:85×51.3㎜、排気量は3493.2㏄、最高出力は730ps/13000rpmで重量は142kgとした。

 開発にあたって1000ps級の動力を計測する動力計や建屋がなかったため設備を作る必要があった。横尾氏が見積もりを立てたところ5億円であり、会長に見積書を持っていった時は緊張したそうだが、会長はその場で電話をとり「専務はいるか。実験室を造ってくれ、建設期間は3か月だ」と指示を出したという。

 1992年の終わりごろ、ついにYR91は完成を迎えた。出力、重量ともに目標値を達成したエンジンは耐久試験もパスした。

 

YR93、YR95エンジンの開発とF1計画の終焉

 

 しかし、中回転域トルク特性の不満足が解決出来なかった為、引き続きYR93エンジンの開発に乗り出す。ボア×ストロークをややロングストローク化さ82×55.2㎜とし、Vバンク角も70度とした。結果、出力は737ps/13000rpm、重量は140kgとさらに戦闘力が増したエンジンが完成した。

 1995年からFIAが新たなレギュレーションを適応すると発表。すると急遽新レギュレーションに適応したYR95の開発に着手した。3000㏄でVバンク角は72度の10気筒としたエンジンは96年の春にはプロトタイプが完成していたが、本格的動力実験は行われなかった。

 というのも、90年代に入りバブルは崩壊しF1への進出は厳しいものとなっており、95年4月には横尾氏は上司に「スズキは今、F1に参加する状況ではないので、エンジン開発はあと1年で中断すべき。ただし、いつ出も参戦出来るエンジンを用意しておきます」と進言していた。最終的にF1エンジンの開発は進言通り96年の5月をもって中断となった。

 回想録で横内氏はYR93を能力のある車体に乗せてテストしてみたかったこと、YR95は他に引けを取らないものだったと記している。

 

F1計画の真相

 

 さて、ここまではスズキの現場、横内氏の回想録の内容からF1エンジン開発の史実を紐解いてみたが、当時噂されていたF1参戦の計画はどうだったのか?という話を。

 2005年にレイトンハウスのオーナーだった赤城氏がインタビューで、社名は伏せつつも「(不正融資)事件になる直前まである国内自動車メーカーにチームを売却する話をしていた」「91年にはダンパーもそこと関係のあるメーカーで作った」「とある印刷会社のスポンサーも決まっていた」と、91年に噂されていた「スズキが凸版印刷をスポンサーにF1参戦を計画」というものが水面下で確かに動いていたことを仄めかすような内容を告白している。

 当時のスズキにとっては東欧圏への宣伝のためにもF1の参戦は魅力的に映ったのでは、とも語られており、なるほどそれなら会長もF1計画を温めていたと考えていてもおかしくない。

 しかし、その計画もレイトンハウスの離脱によりチームのオーナーが変わりすべてが白紙になった。だが、スズキのF1計画だけは残り続け“その時”の為に5年にわたり開発を続けたことは驚きだ。

 ちなみに、不正融資事件の報せを聞いたのはダンパー会社(カヤバ)でブルナーと打ち合わせをしているときだったという。

 

 さて、関係のない話かもしれないがレイトンハウスが離れ、以前の「マーチ・エンジニアリング」に戻った92年。メインスポンサーが離れ、すっかり寂しくなったマシンに「SUZUKI」の文字があった。カナダGPだけのことだったが、これは現地法人によるスポンサーだったとのこと。しかし、そのレースが92年で唯一の入賞となったのはなにか因果を感じてならない。

 

 

≪後書≫

 

 さて、個人の雑感ですが。

 レイトンハウスが「レイトンハウス・スズキ」として参戦する未来があったことを考えると面白そうだ。YR91の完成した92年といえばヤマハがOX99で147kgという重量、600~630馬力を達成していたので、YR91はそれを上回る数値である。後にミナルディで良作を残したブルナーデザインの車とタッグを組んでいたらどうなっていたのだろうか?

 せっかく100周年を迎えたのだから、これまでのモータースポーツ史についてスズキには作ってほしいと思う。そして、このF1計画や開発したエンジンが残っているならばぜひ見る機会を作ってほしいと願ってしまう。

 ところで今はこのYR91~95はどこに保管されているのだろうか?

 2003年に新潮社のENGINEという雑誌に“ハーテック・プラザ”というスズキの博物館のようなものに展示されていたという情報があるがそれ以降は不明である。

 

≪参考資料≫

紺碧の天空を仰いで 著/横内悦夫

AUTO SPORT No.576 1991年3月15日号

Racing on No.391

 

≪参考サイト≫

http://kconasu.otaden.jp/e33731.html