- 1991年 鈴木亜久里(ベネトン)
- 1995年 片山右京(ベネトン)
- 2010年 佐藤琢磨/小林可夢偉(ルノー)
- 2013年 小林可夢偉(ロータス)
- ルノーをドライブした日本人-本山哲と山本左近-
- ≪追記≫オファーを蹴ったり、契約したのに車に乗れなかったりしたことも
- おわりに
前口上
-近くて遠い、第3勢力-
日本人がF1でこれまで勝てなかったのは、勝てるチームにいなかったからである。という考察がある。確かに過去35年に渡りタイトルを手中に収めてきた6つのチーム(フェラーリ、マクラーレン、ウィリアムズ、ベネトン/ルノー、レッドブル、メルセデス)に何人の日本人が座れただろうか?2007年最終戦から約2年、タイトル争いから遠のいて久しいウィリアムズと契約した中嶋一貴以外にいないのが現実である。
だが、契約交渉というステージまで話を広げると、ある1チームがずば抜けて日本人との関わりが出てくる。それがベネトン。そしてそこから派生するルノーやロータスである。
今回は日本人がもしかするとベネトン/ルノー/ロータスと契約できたかもしれないエピソードについて振り返ってみたい。
1990年、日本人初の表彰台登壇を成し遂げた鈴木亜久里。彼が日本人として初めてベネトンとのコンタクトがあり、実際に契約書にサインまで交わしたドライバーであった。
表彰台を獲得した日本GPの直前、当時のベネトンのマネージングディレクターでもあったフラビオ・ブリアトーレからコンタクトがあり、東京のホテルで93年契約の書類にサインをした。
実はこの時、ベネトンは当時所属し、翌年の契約を交わしていたドライバーの一人であったアレッサンドロ・ナニーニがヘリの墜落事故によって右腕切断の重傷を負ったことにより、急遽翌年のドライバーを確保する必要があったのだ。
しかし、この契約は破綻してしまう。鈴木亜久里が当時契約していたラルースとは91年までの契約を結んでいたためだった。当時亜久里はチームが資金的に厳しいことから「ラルースは90年で撤退すると思ってた」と考えていたらしく「なんとかなると思った」という。その思惑は外れ、ラルースはスポンサーを増やすことに成功し91年も存続、亜久里のラルースとの契約もそのまま引き継がれることとなった。
Michael Schumacher, Camel Benetton B191 - Ford HBA/5 3.5 V8. GP Monza 1991.#F1 pic.twitter.com/G8YTTJGs0Z
— Legendary F1 🏁 (@LegendarysF1) 2018年9月8日
≪if~もしも91年にベネトンに移籍できていたら~≫
仮に、91年ベネトンで戦うことになっていたらどうだっただろうか?
本人が後に語るように、91年イタリアGPにシューマッハが電撃移籍する時に降ろされていたかもしれないとしつつも「それまではいいレースが出来ていたかもしれない」という。
91年のベネトンは序盤2戦を90年型のB190、以降をB191で戦い、ネルソン・ピケは1勝を含む3度の表彰台、イタリアGP直前でシートを降ろされたロベルト・モレノも4位2回、5位2回の4度の入賞を果たしている。仮にモレノと同じ成績だったとしても、表彰台以後の亜久里の入賞回数よりも多い。当時はマクラーレン、ウィリアムズが圧倒的な強さを誇っていたため、優勝の可能性は低いかもしれないが、あわよくば2度目の表彰台という可能性があったかもしれない。
日本人として3人目のフルタイムF1ドライバーである片山右京も、フラビオ・ブリアトーレに声をかけられたドライバーの一人であった。
1994年にティレルで予選最高位5位/決勝最高位5位を記録し、ドイツGPでは2位走行を記録。当時フランスのテレビ局、TF1で解説をしていたアラン・プロストに「95年の注目ドライバーは片山右京」と言わしめる活躍をみせた。
その活躍が認められ、フラビオ・ブリアトーレから契約のサインを即答で求められたが、「珍しくJTさん(当時の個人スポンサー「日本たばこ産業」)に聞かなきゃ」と思ってしまい、即答を拒んでしまったという。結果的にベネトン行きはなくなってしまった。
Michael Schumacher, Mild Seven Benetton B195 - Renault RS7 3.0 V10. GP Alemania 1995. #F1 pic.twitter.com/pGJj8tvNho
— Legendary F1 🏁 (@LegendarysF1) 2019年7月30日
≪if~もしも95年にベネトンに移籍できていたら~≫
仮に、95年ベネトンで戦うことになっていたらどうだっただろうか?
まずは日本人として初めて前年度チャンピオンドライバー、ミハエル・シューマッハのいるチームへの所属となっていたのは言うまでもない。
本人は後にいくつかのインタビューで、もしベネトンへの移籍が実現していたら「まぐれで1,2勝は出来ていたかも」「勝てなくても表彰台には何度か乗っていたかも」と語っている。
95年のベネトンはドライバー、コンストラクターズのダブルタイトルを目指し、B195でミハエル・シューマッハとジョニー・ハーバートのコンビで戦った。シューマッハは9勝、ハーバートは2勝を挙げた。ハーバートの2勝は、首位争いをしていたシューマッハとヒルの接触により手に入れたものでもあったため、右京が乗っていたら日本人初優勝の可能性は高かったかもしれない。
2010年は二人の日本人ドライバーにルノー入りの可能性があった。
一人目は、佐藤琢磨である。2008年、所属していたスーパーアグリが資金難によりシーズン途中で撤退し、シートを失った琢磨は2009年以降の活躍の場を求めウィリアムズからのオファーをはじめ、トロ・ロッソ、ルノー、2010年から新規参戦を決めていたケータハム(当時はロータス・レーシング)との交渉を進め、トロ・ロッソに関してはフランツ・トストから「君は僕たちのドライバーだ」という連絡まで貰っていたが、最終的には契約には至らなかった。
もう一人は、2009年にトヨタから鮮烈なデビューを果たした小林可夢偉だ。
可夢偉は2009年の終盤戦にティモ・グロックが負傷した代打としてデビューすると、その年のチャンピオンであるジェンソン・バトンを追い回す印象的な走りを見せたが、トヨタが2009年いっぱいでの撤退を発表。2010年のシートを模索していた。
最終的に彼はザウバーへと移籍するのだが、その際にもう一つオファーがあったのがルノーだった。
#WallpaperWednesday X 2010 📅
— Renault F1 Team (@RenaultF1Team) 2020年4月15日
Robert Kubica driving the Renault R30 at the 2010 #CanadianGP where he finished 7th and set the fastest lap of the race. ⏱#RSspirit #StayAtHome pic.twitter.com/pOPrwHiH0f
≪if~もしも10年にルノーに移籍できていたら~≫
2010年にルノーに移籍していたとしたら。
2010年のルノーはR30を使用。09年に発覚した「クラッシュゲート」の影響でタイトルスポンサーだったINGや、フェルナンド・アロンソ、フラビオ・ブリアトーレなどが離脱するも、不調だった09年に比べると成績は上向いた。
ロバート・クビサは3度の表彰台と2度のファステストを記録し、ヴィタリー・ペトロフも5度の入賞を達成している。
正直な感想を言うならば、表彰台獲得は難しい結果になった可能性はあるが、安定してポイントは取れていただろう。
小林可夢偉は、もう一度ルノーとのコンタクトを取ることとなる。先のザウバーで3年間F1を戦うが、2012年いっぱいでチームを離れることとなってしまった。新天地を求め交渉をしていたのが過去にオファーをもらっていたルノーの後継チームであるロータスだった。
ロータスは、ロマン・グロージャンのクラッシュが多いことから離脱するのではないかという噂があり、その際のドライバー候補の一人として可夢偉は上がっていた。
当時可夢偉は、応援プロジェクトを通じて1億円の支援金を持ち込むことができ、12年には表彰台を獲得するなどアピールできる点はあったが、グロージャンのマネジメント担当者がチームと関わりが深いこと、大口スポンサーを持ち込んでいること、そして12年は表彰台を3度獲得し実績もそれなりにあることなど、グロージャンが残留する要素は多く可夢偉はロータスのシートを得ることは出来ず、浪人することとなった。
Formula1:2013 Lotus E21 #7 (Lotus F1 Team) pic.twitter.com/3oBtNECvax
— レースカー画像bot (@Racecars_bot) 2018年11月13日
≪if~もしも13年にロータスに移籍できていたら~≫
ロータスの2013年はE21が1勝含む計14度の表彰台を獲得し、コンストラクターズランキングでも4位になった。シーズンとしてはセバスチャン・ベッテル(レッドブル)が圧倒的に強いシーズンではあったが、日本GPではスタートから暫くグロージャンがトップ走行をするなど、チャンスが十分にあったといえる。
そもそも移籍できる可能性が少ない内容ではあったが、仮に移籍できていたとしたら複数回表彰台は獲れたのではないだろうか。
ルノーをドライブした日本人-本山哲と山本左近-
ここまではベネトン/ルノー/ロータスというチームと契約寸前や交渉のテーブルに座ることのできたドライバーの話だったが、実際にルノーのマシンをドライブ出来た日本人もいる。ただし、セレクションの為のテストドライブやデモランを行う契約であり、レース走行に直結するものではなかった。
本山哲は2003年シーズンオフにへレスサーキットでR23を駆りセレクションに参加したが、海外での実績や資金力、年齢などの総合的な観点から契約には至らなかった。
@UnusualF1 Satoshi Motoyama , Renault, 2003. pic.twitter.com/h8Gs6H2c70
— Egor (@gorlovegor) 2016年8月14日
山本左近は2008年にルノーと3人目のテストドライバーとして契約を結び、開発プログラムを担当するとともに全GPに帯同。また、世界各地で行われる「ルノー・ロードショー」というデモランイベントで走行をした。
Sakon Yamamoto, Renault, 2008 pic.twitter.com/MwLEp4g9PA
— Unusual F1 (@UnusualF1) 2016年2月13日
≪追記≫オファーを蹴ったり、契約したのに車に乗れなかったりしたことも
これまで紹介したもの以外にも、ベネトンとのかかわりを持ったドライバーがいる。
・星野一義(1990年)
元祖日本最速の男として知られる星野一義にもベネトンからオファーがあったことが知られている。時は1990年、ベネトンのアレッサンドロ・ナニーニが事故で日本GPへの参加が難しくなった時にフラビオ・ブリアトーレは連絡をとったという。
しかし、星野はこれを断った。どうやら持参金を用意しなければならないという話になり、星野の「プロのドライバーはお金を貰って走るもの」という考えから、参戦は実現しなかった。
・光貞秀俊(2000年/テストドライバー)
1999年にフォーミュラ・ニッポンでランキング3位になった光貞秀俊は、スポンサーの力(MTCIというインターネット関連企業)も借りて2000年にベネトンのテストドライバーとしての契約。
しかし、噂ではそのスポンサーの資金繰りが悪化しチームへの資金が途絶え、車を一度もドライブすることなくチームを去ることになった。
ちなみにスポンサーロゴはベネトンの00年のマシン、B200のミラー部分やヘッドレストに見ることが出来ますが、新車発表会やプロモーションの写真以外では見つけられない。
おわりに
-「優勝できるチームに日本人が行けなかったから」日本人は勝てない-
上の言葉は、「なぜ日本人がF1で勝てないのか?」という質問に鈴木亜久里が2010年に答えたものだ。
改めて見直してみると、これまで日本人が所属したチームで日本人が所属した年にチームとして何勝しているのか? なんと中嶋悟が所属していたときにロータスが2勝(アイルトン・セナ)している以外に存在しない。
だが、ベネトン系列のチームに所属していたらというタラレバがあったらどうだろうか?鈴木亜久里は1勝、片山右京は11勝、小林可夢偉は1勝をあげられたチームに所属していたことになる。
勝つどころかF1から日本人ドライバーがいなくなって久しいが、2020年現在は角田祐毅がレッドブル育成ドライバーとしてF2まで上がってきている。彼が無事ステップアップすればアルファタウリ、レッドブルへと昇格し、勝てるチームへ所属できる未来がかすかに感じられる。
まずは「勝てるチームへ行く」。これが出来る日本人ドライバーが今後育っていくことを期待したい。