【Super GT】外車達のGT500① -概略-

 Super GTのGT500クラスといえば、今や国産メーカーであるトヨタ、ホンダ、日産による覇権争いとなっていますが、今から10年前まではプライベーターが市販のレース車輌や独自開発の車両で同じクラスを戦っていました。

 

 GTの歴史においてこれは特別なことではなく、前身であるJGTC当初からプライベーターにもトップカテゴリーで戦う機会は与えられていましたが、3メーカーの開発競争の激化にプライベーターはついていくことができず、次第に戦いの場をGT300クラスへと移していきました。

 

 さて、今回はJGTCSuper GTにかけて戦った「3メーカー以外」のGT500マシンやチームについてザックリと書いてみました。

 

 いずれは深堀した内容を投稿しようと思いますが、まずは簡単な概略ということで。

◆ポルシェ(94~98年:PP3回/優勝5回)

まだGT500クラスがGT1クラスと呼ばれていた頃、ポルシェはカテゴリーの最大勢力の一つだった。

94年は日産に次ぐ5台が参戦。95年には9台が参戦を果たした。メーカー開発競争が激化する前、メーカーと対等に戦うことが出来る戦力を得ることが出来た。

創成期のGT1でタイトルを獲ったチームタイサンや後にホンダ陣営入りするチーム国光が94、95年に5勝を収め、その中には現コンドーレーシング監督の近藤真彦がドライブしたグループCベースの962Cによる勝利も含まれる。

96年以降、上位争いからは脱落するも98年まで参戦が続いた。

 

マクラーレン(96年、99〜03年、05年:PP8回/優勝5回)

チーム郷が96年にマクラーレン・F1 GTRを2台体制で投入。圧倒的な強さでスカイラインスープラ等国内勢を蹴散らし6度のポールと4勝を挙げ、チーム・ドライバーズの2冠を達成。

99年にはそれまでポルシェで参戦していたチームテイクワンが、翌年には一ツ山レーシングが欧州から払い下げられた第2世代F1 GTRで参戦を開始。

 

すでに3メーカーの開発競争が激化している中、時に上位争いに進出し01年最終戦にテイクワンがポールトゥウイン、02年に一ツ山が1度のPPを獲得している。

なお、3メーカー以外のPP・優勝の記録はこのマクラーレンによるものが最後である。

 

フェラーリ(94~96年、04~05年:PP2回/優勝1回)

Team TAISANは94年〜96年までF40を投入。初年度にPP1回/優勝1回、95年にもPP1回獲得する等速さを見せていた。

その後、一ツ山レーシングが04年から550マラネロを使用し参戦した。550マラネロの最高成績は決勝12位。

 

ランボルギーニ(JLOC:94〜05年:決勝最高位8位)

JGTC創設当初から参戦を続けているJLOCは、当初最高峰クラスに参戦していた。

94年はカウンタック、95年からはディアブロ、2005年にはムルシエラゴで戦った。98年には2台体制で参戦するも3メーカーの壁は高かった。05年シーズン中にGT300にスイッチすると、翌年開幕戦で優勝。戦闘力を発揮した。

 

クライスラー(TAISAN:97〜00年)

Team TAISANは97年からクライスラー・バイパーでも参戦をしていた。最終的には00年途中でGT300へとスイッチし、03年まで戦った。

 

◆ヴィ―マック(東京R&D:03〜04年)

日英協同のスポーツカー「ヴィ―マック」は、02年にGT300でデビューするなりパーフェクトウィンを達成すると、翌年にはGT500クラスへ打って出る。

しかし、3メーカーの開発スピードに追いつけず苦戦。04年には最終戦のみ参戦とし、残りを開発期間とした。最終戦では上位進出こそならなかったが完走。

翌年以降は計画を修正しGT300クラスで戦うことになった。

 

アストンマーティン(チームNOVA:09年)

チームNOVAとして一ツ山レーシングがDBR9を投入した。しかし、これはどちらかといえばアジアン・ ル・マン・シリーズ参戦に向けたテストの意味合いが強く、成績は14位が最高だった。

ちなみに、このアストンマーティンDBR9が2020年現在で最後に500クラスに参戦した海外車両である(DTM交流戦は含めず)

 

メルセデスベンツ(HKS:02年)

300クラスで幾度もタイトルを獲得しているメルセデスだが、500クラスにはHKSがオリジナルマシンで参戦した。03年のレギュレーション変更を前に、その内容を取り込み先行参戦したCLKは注目こそ浴びたが、当初はまともに走ることも出来ず、出場できたのは3戦のみで最高位は15位。

 

ランチア(94年)

JGTC初年度に登場した「ラリーカー」ランチア037。元はWRCグループBに参戦していた車両だが、94年の富士にスポット参戦していた。


【幻の参戦車両たち】

参戦計画に終わった車も存在する。有名なところで言えば96年にマクラーレンJGTCを制したチーム郷は、当時FIA GT選手権を戦っていたマセラティMC12で06年に参戦を目指していたが、開発が間に合わすに参戦を取りやめた。

 

また、99年にはMTCIというチームがメルセデスベンツのCLK-LMを購入して参戦すると表明していたが、購入することが出来ず参戦出来ずに終わった。

 

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 とりあえずザックリな内容としては以上です。漏れがあったらすみません。

 

 個人的には、プライベーターVSメーカーという戦いも見たいと思う人間なので、実を言うとDTMとの共通シャーシであるクラス1には期待していたんですけどね。

 

実際、ステディがBMWから500クラス参戦の計画の存在を語っており、他にも同様の計画があったことも海外メディアが噂をしている。

 

今後、クラス1やDTMとの共存がどう進むかはわからない。だが、いつかプライベーターも戦える時代が来ることを夢に見ている。

【Formula-E】Formula-Eの6シーズンを数字の上から振り返ってみる

 フォーミュラEのシーズン6が終了して早2週間が経ちました。

 新型コロナウイルス(COVID-19)の影響で、終盤ドイツ・ベルリン6連戦というスケジュールの変更があったシーズンを制したのは、アントニオ・フェリックス・ダ・コスタでした。

シーズン1にチーム・アグリより8戦に参戦、シーズン2からフル参戦を開始し、シーズン3からはアンドレッティに移籍。シーズン6はディフェンディングチャンピオンチームであり、古巣であったチーム・アグリを買収して誕生したテチーターからの参戦でした。

 

 …と、6年の間にもこのような歴史があるわけですが。

 せっかくなので、この6年間を私が追える範囲内で様々な振り返りをして、きたるシーズン7を楽しむ豆知識にでもなれば、と思います。

 ※一応公式より情報は引っ張ってきていますが入力漏れ等で相違がある可能性がございます。その際はご了承いただければ…。

 

 

 

 

1 出走回数

 

シーズン6までに69戦開催。皆勤賞は4人

 

 2014年に中国・北京で始まったフォーミュラEは毎年10~13戦を開催し、シーズン6までで69戦を開催しました。そして、偶然にもこれまでの参戦ドライバー数もちょうど69人だったりします。

 その中で69レースすべてに参戦しているドライバーは4人います。

 3代目チャンピオン、ルーカス・ディ・グラッシ。シーズン6途中までディ・グラッシと同チームに所属していたダニエル・アプト。そして、サム・バードとジェローム・ダンブロシオです。

 

2 総得点数

 

700点越えは2人。無得点は15人

 

 6シーズン通しての総獲得得点を見てみると、全てのシーズンでタイトル争いに絡んでいるディ・グラッシが796点、セバスチャン・ブエミが783点と2人がずば抜けています。

 次点のベルニュは、シーズン1途中から参戦ながらも663点を積み上げています。シーズン4、5を連覇した実力は伊達じゃないですね。

 604点獲得しているのはサム・バード。タイトルには届いていないですが、シーズン成績3位1回、4位2回、5位1回という記録を出しているだけに侮れないです。……ここ2シーズンは9位、10位と浮上しきれていませんが。

 

 ちなみに69人の参戦経験者の中で15人が無得点だったりします。といってもシーズン1などのようにスポット参戦が比較的多いカテゴリーなので、1レースだけ出て無得点ということが多いです。無得点で最多出走は馬青驊(マ・キンファ)で、14レース出走で無得点でした。

 

3 優勝回数

 

上位4人で半分以上の勝利を分けあう

 

 6シーズンで17人の優勝者が出ているフォーミュラE。その中で最多勝利を獲得しているのが2代目チャンピオン、セバスチャン・ブエミである。その勝利数は13勝。

 次点ではブエミと初年度からタイトル争いを繰り広げていたディ・グラッシで10勝。そして、その下には9勝でベルニュとバードが並びます。この4人で計41勝と、半分以上の勝利を分け合っていることになります。

 

4 ポールポジション

 

意外なドライバーが上位に

 

 ポールポジションは6シーズンで20人が獲得しています。こちらでもセバスチャン・ブエミが14回で最多記録です。次点にいるのは2連覇を成し遂げたベルニュで11回のポールを獲っています。

 驚きなのが獲得数3位としてフェリックス・ローゼンクビストが入っていることです。回数は6回なのですが出走回数は25回で2シーズンしか出ていないのに3位に入ってくるのはすごいですね。

 

5 ファステストラップ

 

タイトル経験者を抑えてあのドライバーが首位

 

 ファステストラップは25人が獲得しています。

 その中で、獲得数最多がタイトル経験のないダニエル・アプトで8回というのが少し意外ですね。フォーミュラE開催当初からタイトルを争っていたディ・グラッシブエミは揃って7回。

 

 

6 ファンブースト

 

 

ドライバーだけではどうにもできない独自システム

 

 フォーミュラE独自のシステム、『ファンブースト』。

 当初レース前に人気投票を行い、上位3人は一定時間エクストラパワーが使えるというシステムで、シーズン5よりその枠は5人に増えた。

 そんなファンブーストだが、69人の内31人が獲得経験を有し、その中で2桁獲得経験があるのは6人。タイトル経験者のブエミが41回でトップとなっている。

 2番手にはアプト38回、3番手にディ・グラッシ37回、4番手にはダ・コスタとバンドーンが24回。2連覇記録を持つベルニュは13回で6番手です。

 

 ちなみに4番手のダ・コスタ、バンドーンは「年間最多ファンブースト獲得」というもう一つのファンブースト記録を持っている。シーズン5で全13戦中13戦でファンブーストの獲得となったのでした。

 

7 日本人の記録を見てみよう

 

ポイント獲得は1人だけ!出走回数も全員合わせてたった5回!

 

 ここまで主要の記録の上位を見てきましたが、日本人の記録はどうか。

 さっそく下記にまとめてみました。

 

◆出走回数

小林可夢偉山本左近:2回

佐藤琢磨:1回

 

◆総得点

佐藤琢磨:2

 

◆ファステストラップ

佐藤琢磨:1回

 

◆ファンブースト

小林可夢偉:2回

山本左近:1回

 

以上

 

 そもそも、フル参戦ドライバーが今のところいないということもあるので、そろそろ若手で生きのいいドライバーが参戦してほしいところですね。

 今のところ一番近いのは日産・edamsでリザーブドライバー契約をしている、2017年全日本F3選手権覇者の高星明誠がいますが、レギュラーとして参戦する見込みは聞こえてこないですね…。

 

 と、いうわけでザックリフォーミュラEの記録に関してまとめてみました。

 詳しい記録はホームページの資料室にデータを格納しておりますのでよろしければ。

 ※データの2次使用はご遠慮ください。使用の際はお声かけいただければ……。

 

◆SANDUKURI OFFICIAL WEB SITE

 http://sandukuri.starfree.jp/

 

≪終劇!≫

【F1】幻に終わった日本のF1計画~コンストラクター編~

日本における幻のF1計画

 

 ここ最近、幻の計画を追うのが個人的にブームとなりつつあります。

 

 直近のブログは全てそんな内容でしたしね(日本人のベネトン入り、SSCC開催計画、スズキF1)

 

 さて、今回は個人の備忘録としての意味合いが強いですが

 

「幻に終わった日本のF1チーム」

 

 のザックリとしたまとめを書いてみようと思います。

 

 少なくともRacing on等をベースに書いてあるので、ウィキペディアより内容を持たせて、ソースもはっきりしているつもりです(ディレクシブは除く)

 

トラサルディ(ミドルブリッジ)(1987)

 

 1987年に、当時F3000に参戦していたミドルブリッジ・レーシングがエントリーを行い、後に却下されている。

 その内容というのが87年の終盤戦に参戦開始を目標とし、エントリーはベネトンの3台目として、マシンは86年型のベネトンB186、エンジンはBMW直4ターボを使用。スポンサーにはイタリアのアパレル「トラサルディ アクション」。88年の計画も同時に発表されており、87年同様ベネトンの3台目としてエントリー、車両はB188を用いる予定だった。無論、そんなエントリーは通るわけもなかったが……。

 ドライバーには当初、全日本F3000で活躍していた鈴木亜久里が起用される予定だったが、「亜久里の周囲の協力者たちの多くが疑問を抱いた」ため、イギリスでのテスト直前に中止、亜久里起用も白紙となった。

 最終的には国際F3000に参戦していたエマニュエル・ピロを起用するはずだった。

 

フットワーク・スポーツ・レーシング(1988)

 

 フットワークといえば、アロウズを買収してF1にすでに参戦したが?と思うかもしれないが、それとは別に国内のコンストラクタームーンクラフトをはじめ、ヤマハ鈴木亜久里も含めたオールジャパンでの参戦構想が存在していた。

 その計画は87年にムーンクラフトによるF3000オリジナルシャシーの開発、88年に全日本F3000を制覇、90年に国際F3000でも成果を上げて91年にはF1参戦というものだった。

 しかしながら88年に全日本制覇をすべく投入されたMC030が開幕戦の予選でトラブルが発生し、開発の為にMC030で走ることを望むムーンクラフトとまずは結果が必要と代替シャシーでの参戦に切り替えるべきというスポンサー、ヤマハ陣営とで対立。結果的にマーチ87Bで開幕戦を戦い、その後レイナード88Dへ切り替え鈴木亜久里がその年の全日本F3000を制することになる。

 それが起因となってか、4者は別々の道を進むこととなる。鈴木亜久里は88年にF1日本GPにスポット参戦、ヤマハは89年に亜久里と共にザクスピードからF1を戦うことを選択する。フットワークは90年にアロウズを買収しF1の舞台へ駒を進めた。ムーンクラフトはその後もシャシー開発を継続し、最終的にMC060モノコックを製作したが、ついにF1への扉は開かなかった。

 

レブロン・レーシング・システムズ(1992)

 

 1992年に赤坂プリンスホテルで会見を行い、参戦計画を発表した「トレブロン」は「既成概念を打ち破るハイテクF1の開発」を掲げたが、ジャッドV8を使用することと、風洞モデルではないイメージイラストをモデル化したものを見せただけにとどまった。結果的にその計画は静かに消えていった。

 

トムス(1992~95)

 

 1992年にはトヨタのワークスチームという立ち位置になっていたトムスにもF1参戦の動きがあった。

 1992年にはアラン・プロスト、ジョン・バーナードがトムスを通じてトヨタエンジン獲得を目論んで接近していた。しかし、シャシーを見てから判断したいトヨタとエンジンが先だと譲らないバーナードとで平行線となり、計画は流れてしまう。

 しかし、その翌年には新たなF1計画が持ち上がる。今度はフランク・コパックを雇いオリジナルで参戦を果たすというものだった。実際に93年にはビッグ・フォーミュラでの経験を積むために全日本及び国際F3000へ参戦。

 計画はかなり具体的なところまでまとまり、最初のマシン「011F」の25%風洞スケールモデルも制作された。エンジンは市販のフォードHB搭載で交渉が進められており、あとはスポンサーが集まれば、というところまで来ていたが結実しなかった。

 当時はトヨタブリヂストンとの関係も噂されていたようだが、一切なかったという。

 

イクザワF1(1994)

 

 日本レース界の黎明期に渡欧し、当時としてF1に最接近したドライバーの一人として知られる生沢徹も、自身のF1チームで参戦を計画していた。

 イギリスのエセックス州に拠点を開設。元ウィリアムズのピーター・ウィンザーや元フェラーリエンリケ・スカラブローニを迎え入れ、スタッフの公募も行っておりその計画は具体的に進行していた。車体についてもスケッチが存在する等していたが、この情報が漏れ伝わった当時は「まだオープンにできる話はない」としていた。

 しかし、バブルの終焉と1995年1月の阪神・淡路大震災により全ての計画に終止符が打たれることとなった。

 

童夢(1994-00)

 

 ル・マンに長年参戦していた童夢だが、1990年代を前にル・マンからフォーミュラへとその活動をシフトし、1987年から全日本F3000に参戦、翌年には自社開発の車両を用いて、94年には全日本F3000のタイトル獲得に至った。

 その水面下で動いていたF1プロジェクトは、96年に無限ホンダエンジンを供給されることが発表されるとともに表に出るようになる。テストマシンF105は97年から参戦開始を目標に国内主要サーキットでテストを繰り返したが、日本企業からの支援は一向に集まらず時ばかりが過ぎた。98年にはホンダが第3期F1計画の発表によりいよいよホンダから支援を受けられる可能性も閉ざされてしまう。

 ホンダの発表前にはヤマハ接触し、片山右京を乗せF1への参戦を提案していたが、無限との絡みもあり話は実現しなかった。

 他にもミナルディを買収して参戦という噂も出たり、97年にはマリク王子が99年からの参戦に向け交渉を持ちかけたり、オランダ企業のコンソーシアムとの話し合いがもたれたりしたが(こちらは、エンジンはコスワース、破綻の危機にあったプロストと手を組むというところまで話がついていた)、実現には至らなかった。

 

ディレクシブ(2005年)

 

 当時突然現れて国内トップカテゴリーからGP2までスポンサーやチーム所有などの動きを見せていたディレクシブ。2005年に最初のF1へのアプローチを行っていた。その内容は、鈴木亜久里に資金援助を約束し、亜久里はホンダに対し当時F1に参戦していたB.A.Rチームの買収・共同運営の提案をしたというものだが、ホンダがディレクシブの経営実態を怪しみ拒否。

 その後にマクラーレンへのスポンサー、業務・技術提携を行い、その流れからマクラーレンのBチームとしてF1参戦が噂されるようになる。

 2006年にはF1新規エントリーの申請を行うも落選。それを期にディレクシブは急速にモータースポーツから姿を消した。

 ちなみに、噂が現実となっていればドライバーには当時マクラーレンのテストドライバーだったペドロ・デ・ラ・ロサゲイリー・パフェットルイス・ハミルトンが候補であり、ジャン・アレジがディレクターとして就任する可能性があった。

 

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なぜ、実現できなかったのか?

 

 私が現在まとめたのは以上なのですが、水面下で蠢いていた計画はほかにもあったかもしれない。

 

 これらの計画ですが、なぜ実現できなかったかを見るとそのおおよそがスポンサー集めに苦戦したものであるよう。

 

 トムスに関しては当時、日本企業の獲得に苦戦していたようで「日本チームとして出場したいのに、日の丸を掲げないでくれと言われた」ことさえあったという。

 

 バブルで多くの企業が世界に進出した結果、すでに国際ブランドとしてやっているのに今更日本の国旗を出すのも…、という反応があったらしい。

 

 童夢については幾つもの選択肢があった。特に無限×童夢のプロジェクトから、ヤマハに切り替えることとプロストと提携をしプロスト童夢コスワースとして参戦することについてはかなり現実味を帯びた話だった。

 

 しかし前者は無限と共に始動した計画ということもあり、遅々として進まずとも手を切ることは出来なかった(が、その数か月後に出資者のホンダが第3期計画を打ち出したため消滅)

 

 後者はエンジンを決めるまでに時間がかかり、出資者が離れてしまったことが原因だった。

 

 また、資金的な問題以外では参戦計画自体に難があったものもある。筆頭はトラサルディだろう。そして、謎多きトレブロンディレクシブ

 

 そして、計画の途中で方向性が分裂したのがフットワークといったところか。

 

 

 …というわけで、こういった幻の計画がありましたよ、ということを書いただけの内容です。

 

 個人的には童夢ヤマハ/片山右京 は見てみたかった気はしますね。あとはフットワーク・ヤマハ/鈴木亜久里 も。トムス・フォードも実際に車が出来てテストまでいったらどうなったか…、キリがないですね(汗

スズキとニューウェイに繋がりはあったか

前回、スズキのF1計画についてのまとめの内容を書いたのですが、スズキのF1計画について調べているときに少し気になることがありましたので、雑記として書こうと思います。

 

ちなみに、スズキのF1計画についてのまとめは前回の記事参照

ksk-kagami.hatenablog.com

 

気になる点というのは

 

エイドリアン・ニューウェイとスズキF1計画は関与があったのか?

 

ということです。

 

というのも、参考書籍に辿り着くまでの過程でネット上を検索していたのですがその中に

 

「(レイトンハウス在籍時の)ニューウェイがスズキのエンジンを使いたがった」

 

というのを見つけたのですが。

調べてみた結果。

 

・ニューウェイがスズキのエンジンを使いたがったという事実はない。というのが私の結論です。

 

その結果に行きつく事実としては以下をあげておきます。

 

1.ニューウェイのレイトンハウス在籍期間は90年のシーズン半ば。7月には離脱している。さらに同年の早い段階から事実上の解雇通告をされていたと自伝に記載がある。

 

2.スズキ(横内氏はじめとする技術部門)のレイトンハウスとの接触は91年1月。エンジンの設計検討に入るのは同年のシーズンの中盤と推測できる文章がある。

 

3.スズキの最初のエンジン「YR91」の完成は1992年の終わり。

 

「ニューウェイがスズキのエンジンを使いたがった」という内容はいくらなんでも無理がある。図面さえもひかれていないエンジンを欲しがる人間などいるのだろうか?

 

ちなみに、スズキがエンジンを完成をさせたのが92年末なので、実戦投入できるのは最速でも93年なのだが、この年にはニューウェイどころかレイトンハウスも、その後のマーチも撤退している。

 

……本当はわざわざこんなこと書く必要もないのですが、一般人のブログではなく業界の方のブログに記載があったものなので、一応反論と申しますか、書いておこうと思いました。

 

こちらの参考文献については前回書いたブログの末筆に記載がありますので、宜しければご確認いただければ。

 

とはいえ、全ての計画がうまくいき

1.ニューウェイがレイトンハウスを離脱せず

2.レイトンハウスとスズキの交渉がうまくいき「レイトンハウス・スズキ」として残り

3.93年にYR91を搭載しF1を戦っていたらどうなっていたでしょうね。

 

ヤマハエンジン並みに軽く、ホンダエンジン並みのパワーを発揮する予定だったので、かなり面白いことになっていたかもしれませんね。

 

仮にドライバーラインナップもずっと同じだったら、カペリとグージェルミンがポディウムのてっぺんに立っていた世界線があったのかもしれないと考えるとなかなか面白いです。

 

一つ謎なのが、スズキがレイトンハウスとの共闘の計画が破綻した91年末以降もエンジンの開発を96年まで続けていたことです。

 

エンジン開発の為に5億円もする研究室の建設をしたことから後には引けなかったのでしょうか?それともHKSのようにどこかのチームへの売り込みを考えていたのでしょうか?

 

いつかこのあたりがわかるような文献が出てくれるとうれしいな、と思います。

 

≪おまけ≫

 

今回のブログの為に念のためニューウェイの自伝のレイトンハウスF1の項も流し読みしたのですが、レイトンハウスのオーナーだった赤城氏のことを

 

「韓国人だが日本人だと偽らなければいけないようだった」という認識でいた記述があったのはなんか面白かったです。

 

2つの青が交わる時 ~スズキF1計画についてのまとめ~

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≪前口上≫ 

 

 2020年に創業100周年という節目を迎える日本の自動車メーカーがある。

 スズキ株式会社だ。

 今や軽自動車やコンパクトカーとしてのイメージが強い会社ではあるが、モータースポーツにも多く関与していた。といってもその多くは、市販車をベースにしたラリー部門や共通パーツを多用したジュニアフォーミュラなどがその主なものである。

 しかし、日本がバブルに沸き、スバルやいすゞ、チューニングパーツメーカーのHKSが自らの技術力を試すためにF1エンジンを製作していた頃、人知れずスズキもF1エンジンを製作し、また当時日本人がオーナーを務めていたF1チーム、レイトンハウスと関わりがあったことは大きく取り上げられてはいない。

 今回は、そんなスズキがF1にどのような関与をしていたかを、当時スズキの社員として計画に関わっていた横内悦夫氏の回想録「紺碧の天空を仰いで」から抜粋した内容を交えつつ振り返ってみたい。

 

開発の開始とレイトンハウスへの接触

 

 1991年1月。横内氏のもとにスズキの上層部から「F1エンジンの開発をしてくれないか」という依頼があった。

 その何年か前から会長である鈴木修氏がFIAの要人について話題にあげ、将来F1をやるような時の為に繋いでおいた方が良い、という旨の話をとある会合でされていたということもあり、将来的にF1に参戦をやりたいと会長は考えていたのではないか、と横内氏は当時のことを回想している。

 すでに上層部で話がまとまっていたのか、数日後にはとある知り合いを通じてレイトンハウスの関係者を紹介され、1月の中旬にレイトンハウスの工場見学とポール・リカールでの合同テストへの見学ととんとん拍子で話が進んでいく。

 テストへの見学は専門誌に報じられ「イルモアにスズキかいすゞ」という見出しで、当時インディーカーにイルモアエンジンがシボレーのバッジで参戦したように、この年レイトンハウスに搭載されていたイルモアエンジンにもスズキ(もしくは当時社内プロジェクトでエンジンを製作していたいすゞ)がバッジネームとしてF1に登場するのでは?と噂された。その記事には、当時のドライバー、マウリシオ・グージェルミンのエンジニアとして加入したジョン・ジェントリーが過去2年間スズキの500㏄2輪GPチームのエンジニアとして関わっていたことについても触れている。

 

レイトンハウスを速い車に

 

 1991年5月。スズキの本社がある浜松にレイトンハウスのオーナー赤城明氏とエンジニアを務めていたグスタフ・ブルナーを含む数人が来日した。

目的はいくつかのパーツの製造依頼だった。内容としては「ショックユニットの改良品」「効率の良いラジエーター」「耐久性のあるギアボックス」の3つであった。

 さっそく翌日にはチーム幹部と共に岐阜にあるカヤバ工業の工場へ向かいショックユニットの製造を打診。チーム側が6月初旬の合同テストで試したいと要望をしたため難色を示したが、横内氏は強く説得しカヤバ工業側もこれを承諾。実質1週間で2台分+スペア4本の計12本が用意されることとなった。

 このショックユニットはテストを経てさっそく第6戦フランスGPから使用され、グージェルミンは使用後に「ソフト感が出て乗り易くなった」と語ったという。

 レイトンハウスが求めた残りの二つ、ラジエーターとギアボックスについては、ラジエーターはデンソーに手配をしていたが(91年7月ごろ納入)、同時にチームに「ラジエーターに当たる風量が少なく、風の出も悪いのでサイドポンツーンの改良を」提案するも、それはことごとく断られたそうだ。ギアボックスについては「現段階では毎回新品に取り変えるのが最善策」と伝えたという。

 

YR91の開発の開始

 

 1991年7月。レイトンハウスへの技術協力をする一方、スズキとしてのF1エンジン開発が着々と進められており、設計検討に入っていた。

 コンセプトとしては「軽量・小型」であり、現地でのレース観戦からV型12気筒エンジンとすることに決定した。目標はホンダV12とルノーV10の長所を併せ持つ軽量で低重心のエンジンで、3500㏄60度V型12気筒、ボア×ストローク:85×51.3㎜、排気量は3493.2㏄、最高出力は730ps/13000rpmで重量は142kgとした。

 開発にあたって1000ps級の動力を計測する動力計や建屋がなかったため設備を作る必要があった。横尾氏が見積もりを立てたところ5億円であり、会長に見積書を持っていった時は緊張したそうだが、会長はその場で電話をとり「専務はいるか。実験室を造ってくれ、建設期間は3か月だ」と指示を出したという。

 1992年の終わりごろ、ついにYR91は完成を迎えた。出力、重量ともに目標値を達成したエンジンは耐久試験もパスした。

 

YR93、YR95エンジンの開発とF1計画の終焉

 

 しかし、中回転域トルク特性の不満足が解決出来なかった為、引き続きYR93エンジンの開発に乗り出す。ボア×ストロークをややロングストローク化さ82×55.2㎜とし、Vバンク角も70度とした。結果、出力は737ps/13000rpm、重量は140kgとさらに戦闘力が増したエンジンが完成した。

 1995年からFIAが新たなレギュレーションを適応すると発表。すると急遽新レギュレーションに適応したYR95の開発に着手した。3000㏄でVバンク角は72度の10気筒としたエンジンは96年の春にはプロトタイプが完成していたが、本格的動力実験は行われなかった。

 というのも、90年代に入りバブルは崩壊しF1への進出は厳しいものとなっており、95年4月には横尾氏は上司に「スズキは今、F1に参加する状況ではないので、エンジン開発はあと1年で中断すべき。ただし、いつ出も参戦出来るエンジンを用意しておきます」と進言していた。最終的にF1エンジンの開発は進言通り96年の5月をもって中断となった。

 回想録で横内氏はYR93を能力のある車体に乗せてテストしてみたかったこと、YR95は他に引けを取らないものだったと記している。

 

F1計画の真相

 

 さて、ここまではスズキの現場、横内氏の回想録の内容からF1エンジン開発の史実を紐解いてみたが、当時噂されていたF1参戦の計画はどうだったのか?という話を。

 2005年にレイトンハウスのオーナーだった赤城氏がインタビューで、社名は伏せつつも「(不正融資)事件になる直前まである国内自動車メーカーにチームを売却する話をしていた」「91年にはダンパーもそこと関係のあるメーカーで作った」「とある印刷会社のスポンサーも決まっていた」と、91年に噂されていた「スズキが凸版印刷をスポンサーにF1参戦を計画」というものが水面下で確かに動いていたことを仄めかすような内容を告白している。

 当時のスズキにとっては東欧圏への宣伝のためにもF1の参戦は魅力的に映ったのでは、とも語られており、なるほどそれなら会長もF1計画を温めていたと考えていてもおかしくない。

 しかし、その計画もレイトンハウスの離脱によりチームのオーナーが変わりすべてが白紙になった。だが、スズキのF1計画だけは残り続け“その時”の為に5年にわたり開発を続けたことは驚きだ。

 ちなみに、不正融資事件の報せを聞いたのはダンパー会社(カヤバ)でブルナーと打ち合わせをしているときだったという。

 

 さて、関係のない話かもしれないがレイトンハウスが離れ、以前の「マーチ・エンジニアリング」に戻った92年。メインスポンサーが離れ、すっかり寂しくなったマシンに「SUZUKI」の文字があった。カナダGPだけのことだったが、これは現地法人によるスポンサーだったとのこと。しかし、そのレースが92年で唯一の入賞となったのはなにか因果を感じてならない。

 

 

≪後書≫

 

 さて、個人の雑感ですが。

 レイトンハウスが「レイトンハウス・スズキ」として参戦する未来があったことを考えると面白そうだ。YR91の完成した92年といえばヤマハがOX99で147kgという重量、600~630馬力を達成していたので、YR91はそれを上回る数値である。後にミナルディで良作を残したブルナーデザインの車とタッグを組んでいたらどうなっていたのだろうか?

 せっかく100周年を迎えたのだから、これまでのモータースポーツ史についてスズキには作ってほしいと思う。そして、このF1計画や開発したエンジンが残っているならばぜひ見る機会を作ってほしいと願ってしまう。

 ところで今はこのYR91~95はどこに保管されているのだろうか?

 2003年に新潮社のENGINEという雑誌に“ハーテック・プラザ”というスズキの博物館のようなものに展示されていたという情報があるがそれ以降は不明である。

 

≪参考資料≫

紺碧の天空を仰いで 著/横内悦夫

AUTO SPORT No.576 1991年3月15日号

Racing on No.391

 

≪参考サイト≫

http://kconasu.otaden.jp/e33731.html

SSCC -Super Silhouette Car Championship-

SSCC-スーパーシルエットカー選手権-についてまとめてみよう

 

 ◆概要 国産にこだわった新たなツーリングカー規格

 

 スーパーシルエットカー選手権“SSCC”は、1998年に日本ツーリングカー選手権協会(TCCA)が発表した、全日本ツーリングカー選手権(JTCC)の後継カテゴリーである。1999年6月より開催することを目標としていた。

 開催の背景としてJTCC時代にメーカー間の開発競争が激化し、開発資金が高騰。結果、最終年にはトヨタワンメイクになってしまった反省を活かし、低コストで参戦できるカテゴリーとして、メーカーの力に頼らないカテゴリーとして開催することを狙いとしていた。

 1998年の11月にはプロトタイプによるデモ走行や記者発表を行い、カレンダーも発表。都内でプロトタイプの展示等プロモーションも行っていたがエントラントが集まらず、1999年4月に開催の延期を発表。その後開催が実現することはなかった。

 

歴史

◆1997~98年前半 水面下 ―T3000計画―

 

 事の発端は1996年頃。JTCCが開催できなくなることを想定し、運営を行っていたTCCAが「新ツーリングカー車両検討作業部会(座長:本田博俊氏)」と「新車両検討専門部会(座長:大岩 湛矣氏)」を設立。次世代のレースイベントを模索する動きをとっていた。

翌97年、JTCCでは日産・ホンダが98年に参戦をしないことが決まり、新カテゴリーの計画が本格化する。TCCAは99年より新カテゴリー(当初の仮称はT3000)導入を計画することになった。1998年の6月の段階では99年をT3000の熟成期間とし、JTCCと併催。トヨタはJTCC継続の為に15~6台まで台数を増やす用意があることを表明し、JTCCに9台の99年型モデルの投入を計画。主催者側も台数の増加を条件に99年のJTCC開催を了承していた。

 

◆1998年後半 急展開 ―開催発表からデモラン―

 

 しかし、8月になっても99年型モデルを走らせるエントラントが現れず、トヨタは99年型モデルの投入を4台とする計画に変更。すると主催者側は台数が98年と変わらなければ開催できないと反発した。トヨタとしても継続を進めたいが資金面の問題もあり、最終的に99年型モデルの投入自体が消滅し、JTCCの99年以降の開催がほぼ不可能となることが決まった。

 当初99年を熟成期間として開催予定だったT3000車両のカテゴリーは急遽メインのカテゴリーとして99年開催することになった。この際、方向性が定まっていなかったがT3000規定カテゴリーとしてSSCCにも全日本タイトルをかけられるように済ませていたので全日本格式のイベントとして単独開催は可能となっていたが、車両開発が遅れていた。

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 プロトタイプの製作自体はボディー製作を担当した株式会社ファーストモールディング曰くゴールデンウィークに打診があり、正式な発注があったのはお盆の頃だったという。

 その後、プロトタイプは1998年11月8日に行われるデモランに合わせて完成し、その年のJTCC王者、関谷正徳によって富士スピードウェイを走行した。その際、関谷は「マシン開発はこれからだね」と発言したとされている。また、この走行を見ていた土屋圭一が興味を示していたとも言われている。

 

 デモランの10日後である11月18日、プロトタイプは東京・青山に移り、TEPIA第11回展示「ものづくり展~21世紀を支える日本のハイテク」後期記者発表会と併催する形でSSCCの記者発表会が行われた。

 

 

◆1999年 未開催 ―集まらなかったエントラント―

 

 無事デモランを済ませ、都内での記者発表も行い車両展示も続けていたが、その後も静観するエントラントが多く、結果的にはエントラントは集まらなかった。6月の開催があと2か月に迫った1999年4月1日にオーガナイザー会議が開かれ、SSCCのカレンダー取り下げが決定した。

 インタビューでは「1年目は5台、2年目なんとか9台。それで3年目は15台。それくらいのペースで」という具体的な目標をあげていたが、それも叶わなかった。

 

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 エントラントが集まらなかった背景には様々なことが考えられるが

・当初想定していた車両価格よりも大幅に高くなってしまったこと

JGTC(現スーパーGT)やスーパー耐久などのその他の市販車改造カテゴリーが複数存在していたこと

・メーカーの直接関与を規制したこと

・平成不況の最中だったこと

また、当初から「本当に開催できるのだろうか?」という声が上がっており不信感もあったのではないだろうか。

 

◆開催計画

 

 1999年6月19日にツインリンクもてぎオーバルコースで開幕し、10月31日にスポーツランドSUGOまで全6戦で行われる予定だった。 

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  またレースの詳細としては

  • 予選は5週の積算タイムで争う
  • レースによって1ヒート、2ヒートを使い分ける
  • 2ヒートの場合はリバースグリッドを適用する
  • 90km×2、または200~500kmの耐久

などが考案されていた。

 

◆車両規格

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 アメリカのNASCARのようなパイプフレームにFRP製カウルという手法が取られている。

 プロトタイプはエンジン供給を表明していたトヨタハリアーに使用されているものを搭載。意匠についても同様にトヨタ・チェイサーをベースにしている。タイヤについてはミシュランのポルシェGT2用のリアタイヤが使われていた。

 日本オリジナルカテゴリーということで、部品に関しても日本製のものにこだわっていた。また低コストを理念としていたため、ミッションやデフは指定部品のみ。ターボなど一部の部品も幾つかの認定部品から選ぶかたちをとる予定だった。

 金額についてはキットとして2000万円前後。エンジン付き組み立て済みで2000万円を切るようにする計画だった。

 当時の車両イメージには3台のイラストが描かれ、チェイサーのほかにアコードやセドリックにもみえる車が描かれていた。

 

このチェイサーは99年のTEPIAでの常設展示の後、富士スピードウェイ付近のガレージ(株式会社エム・ワイ・ジー)に保管されていたが、2014年に高知県立高知高等技術学校に寄贈されている。

 

また、レースゲーム「グランツーリスモ2」でチェイサーTRDにレースカラーを施せる「レーシングモディファイ」という機能を使うと、SSCCプロトタイプのカラーリングにすることもできる。

 

 

◆最後に…

 

 今回、TwitterのSSCCデモラン映像の投稿を見て、以前より気になっていたので文献もしっかり手に入れたうえでSSCCについてまとめてみました。

 

98~99年のたった2年間、しかも実際に開催もされず、車両もプロトタイプが1台だけということもありWeb上での情報もとにかく少なく、いないかもしれませんが今後「SSCCってなんだ?」と検索した人が少しでもこんなカテゴリーがあったのか!とわかりやすいように散らばっていた文献の情報を歴史、規格などをまとめてみたつもりです。もちろん当事者でも関係者でもないので当時のことはわかりませんが……。

 専門誌を遡って分かったのは、開催前ということもあったでしょうが思ったより取り扱い方が小さく感じたということでしょうか。なにせJGTCもすでに人気カテゴリーとなっていた時期ですので、1メーカーしか興味を示していないカテゴリーに注目する必要もあまりなかったかもしれないですね。

 

◆参考文献/参考サイト

AUTO SPORT NO.760 1998年11月15日号 

AUTO SPORT NO.766 1999年3月1日号

AUTO SPORT NO.771 1999年5月15日号

Racing on No.277

Racing on No.279

Racing on No.280

Racing on No.282

Racing on No.283

Racing on No.292

Racing on No.416

 

高知県ホームページ

https://www.pref.kochi.lg.jp/soshiki/151304/racingcar.html

【F1】日本人とベネトン

 

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前口上

-近くて遠い、第3勢力-

 

日本人がF1でこれまで勝てなかったのは、勝てるチームにいなかったからである。という考察がある。確かに過去35年に渡りタイトルを手中に収めてきた6つのチーム(フェラーリマクラーレン、ウィリアムズ、ベネトン/ルノーレッドブルメルセデス)に何人の日本人が座れただろうか?2007年最終戦から約2年、タイトル争いから遠のいて久しいウィリアムズと契約した中嶋一貴以外にいないのが現実である。

 だが、契約交渉というステージまで話を広げると、ある1チームがずば抜けて日本人との関わりが出てくる。それがベネトン。そしてそこから派生するルノーロータスである。

 今回は日本人がもしかするとベネトン/ルノー/ロータスと契約できたかもしれないエピソードについて振り返ってみたい。

 

  1. 1991年 鈴木亜久里ベネトン

1990年、日本人初の表彰台登壇を成し遂げた鈴木亜久里。彼が日本人として初めてベネトンとのコンタクトがあり、実際に契約書にサインまで交わしたドライバーであった。

表彰台を獲得した日本GPの直前、当時のベネトンのマネージングディレクターでもあったフラビオ・ブリアトーレからコンタクトがあり、東京のホテルで93年契約の書類にサインをした。

実はこの時、ベネトンは当時所属し、翌年の契約を交わしていたドライバーの一人であったアレッサンドロ・ナニーニがヘリの墜落事故によって右腕切断の重傷を負ったことにより、急遽翌年のドライバーを確保する必要があったのだ。

 

 しかし、この契約は破綻してしまう。鈴木亜久里が当時契約していたラルースとは91年までの契約を結んでいたためだった。当時亜久里はチームが資金的に厳しいことから「ラルースは90年で撤退すると思ってた」と考えていたらしく「なんとかなると思った」という。その思惑は外れ、ラルースはスポンサーを増やすことに成功し91年も存続、亜久里のラルースとの契約もそのまま引き継がれることとなった。

 

 

≪if~もしも91年にベネトンに移籍できていたら~≫

 仮に、91年ベネトンで戦うことになっていたらどうだっただろうか?

 本人が後に語るように、91年イタリアGPにシューマッハが電撃移籍する時に降ろされていたかもしれないとしつつも「それまではいいレースが出来ていたかもしれない」という。

91年のベネトンは序盤2戦を90年型のB190、以降をB191で戦い、ネルソン・ピケは1勝を含む3度の表彰台、イタリアGP直前でシートを降ろされたロベルト・モレノも4位2回、5位2回の4度の入賞を果たしている。仮にモレノと同じ成績だったとしても、表彰台以後の亜久里の入賞回数よりも多い。当時はマクラーレン、ウィリアムズが圧倒的な強さを誇っていたため、優勝の可能性は低いかもしれないが、あわよくば2度目の表彰台という可能性があったかもしれない。

 

  1. 1995年 片山右京ベネトン

 日本人として3人目のフルタイムF1ドライバーである片山右京も、フラビオ・ブリアトーレに声をかけられたドライバーの一人であった。

 1994年にティレルで予選最高位5位/決勝最高位5位を記録し、ドイツGPでは2位走行を記録。当時フランスのテレビ局、TF1で解説をしていたアラン・プロストに「95年の注目ドライバーは片山右京」と言わしめる活躍をみせた。

 その活躍が認められ、フラビオ・ブリアトーレから契約のサインを即答で求められたが、「珍しくJTさん(当時の個人スポンサー「日本たばこ産業」)に聞かなきゃ」と思ってしまい、即答を拒んでしまったという。結果的にベネトン行きはなくなってしまった。

 

 

≪if~もしも95年にベネトンに移籍できていたら~≫

 仮に、95年ベネトンで戦うことになっていたらどうだっただろうか?

 まずは日本人として初めて前年度チャンピオンドライバー、ミハエル・シューマッハのいるチームへの所属となっていたのは言うまでもない。

 本人は後にいくつかのインタビューで、もしベネトンへの移籍が実現していたら「まぐれで1,2勝は出来ていたかも」「勝てなくても表彰台には何度か乗っていたかも」と語っている。

 95年のベネトンはドライバー、コンストラクターズのダブルタイトルを目指し、B195でミハエル・シューマッハジョニー・ハーバートのコンビで戦った。シューマッハは9勝、ハーバートは2勝を挙げた。ハーバートの2勝は、首位争いをしていたシューマッハヒル接触により手に入れたものでもあったため、右京が乗っていたら日本人初優勝の可能性は高かったかもしれない。

 

  1. 2010年 佐藤琢磨/小林可夢偉ルノー

 2010年は二人の日本人ドライバーにルノー入りの可能性があった。

 一人目は、佐藤琢磨である。2008年、所属していたスーパーアグリが資金難によりシーズン途中で撤退し、シートを失った琢磨は2009年以降の活躍の場を求めウィリアムズからのオファーをはじめ、トロ・ロッソルノー、2010年から新規参戦を決めていたケータハム(当時はロータス・レーシング)との交渉を進め、トロ・ロッソに関してはフランツ・トストから「君は僕たちのドライバーだ」という連絡まで貰っていたが、最終的には契約には至らなかった。

 もう一人は、2009年にトヨタから鮮烈なデビューを果たした小林可夢偉だ。

 可夢偉は2009年の終盤戦にティモ・グロックが負傷した代打としてデビューすると、その年のチャンピオンであるジェンソン・バトンを追い回す印象的な走りを見せたが、トヨタが2009年いっぱいでの撤退を発表。2010年のシートを模索していた。

 最終的に彼はザウバーへと移籍するのだが、その際にもう一つオファーがあったのがルノーだった。

 

≪if~もしも10年にルノーに移籍できていたら~≫

 2010年にルノーに移籍していたとしたら。

 2010年のルノーR30を使用。09年に発覚した「クラッシュゲート」の影響でタイトルスポンサーだったINGや、フェルナンド・アロンソ、フラビオ・ブリアトーレなどが離脱するも、不調だった09年に比べると成績は上向いた。

 ロバート・クビサは3度の表彰台と2度のファステストを記録し、ヴィタリー・ペトロフも5度の入賞を達成している。

 正直な感想を言うならば、表彰台獲得は難しい結果になった可能性はあるが、安定してポイントは取れていただろう。

 

  1. 2013年 小林可夢偉ロータス

小林可夢偉は、もう一度ルノーとのコンタクトを取ることとなる。先のザウバーで3年間F1を戦うが、2012年いっぱいでチームを離れることとなってしまった。新天地を求め交渉をしていたのが過去にオファーをもらっていたルノーの後継チームであるロータスだった。

ロータスは、ロマン・グロージャンのクラッシュが多いことから離脱するのではないかという噂があり、その際のドライバー候補の一人として可夢偉は上がっていた。

当時可夢偉は、応援プロジェクトを通じて1億円の支援金を持ち込むことができ、12年には表彰台を獲得するなどアピールできる点はあったが、グロージャンのマネジメント担当者がチームと関わりが深いこと、大口スポンサーを持ち込んでいること、そして12年は表彰台を3度獲得し実績もそれなりにあることなど、グロージャンが残留する要素は多く可夢偉ロータスのシートを得ることは出来ず、浪人することとなった。

 

≪if~もしも13年にロータスに移籍できていたら~≫

 ロータスの2013年はE21が1勝含む計14度の表彰台を獲得し、コンストラクターズランキングでも4位になった。シーズンとしてはセバスチャン・ベッテルレッドブル)が圧倒的に強いシーズンではあったが、日本GPではスタートから暫くグロージャンがトップ走行をするなど、チャンスが十分にあったといえる。

 そもそも移籍できる可能性が少ない内容ではあったが、仮に移籍できていたとしたら複数回表彰台は獲れたのではないだろうか。

 

ルノーをドライブした日本人-本山哲と山本左近-

 

 ここまではベネトン/ルノー/ロータスというチームと契約寸前や交渉のテーブルに座ることのできたドライバーの話だったが、実際にルノーのマシンをドライブ出来た日本人もいる。ただし、セレクションの為のテストドライブやデモランを行う契約であり、レース走行に直結するものではなかった。

 

本山哲は2003年シーズンオフにへレスサーキットでR23を駆りセレクションに参加したが、海外での実績や資金力、年齢などの総合的な観点から契約には至らなかった。

 

山本左近は2008年にルノーと3人目のテストドライバーとして契約を結び、開発プログラムを担当するとともに全GPに帯同。また、世界各地で行われる「ルノー・ロードショー」というデモランイベントで走行をした。

 

≪追記≫オファーを蹴ったり、契約したのに車に乗れなかったりしたことも

これまで紹介したもの以外にも、ベネトンとのかかわりを持ったドライバーがいる。

 

星野一義(1990年)

元祖日本最速の男として知られる星野一義にもベネトンからオファーがあったことが知られている。時は1990年、ベネトンアレッサンドロ・ナニーニが事故で日本GPへの参加が難しくなった時にフラビオ・ブリアトーレは連絡をとったという。

 

しかし、星野はこれを断った。どうやら持参金を用意しなければならないという話になり、星野の「プロのドライバーはお金を貰って走るもの」という考えから、参戦は実現しなかった。

 

・光貞秀俊(2000年/テストドライバー)

1999年にフォーミュラ・ニッポンでランキング3位になった光貞秀俊は、スポンサーの力(MTCIというインターネット関連企業)も借りて2000年にベネトンのテストドライバーとしての契約。

 

しかし、噂ではそのスポンサーの資金繰りが悪化しチームへの資金が途絶え、車を一度もドライブすることなくチームを去ることになった。

 

ちなみにスポンサーロゴはベネトンの00年のマシン、B200のミラー部分やヘッドレストに見ることが出来ますが、新車発表会やプロモーションの写真以外では見つけられない。

おわりに

-「優勝できるチームに日本人が行けなかったから」日本人は勝てない-

 

上の言葉は、「なぜ日本人がF1で勝てないのか?」という質問に鈴木亜久里が2010年に答えたものだ。

改めて見直してみると、これまで日本人が所属したチームで日本人が所属した年にチームとして何勝しているのか? なんと中嶋悟が所属していたときにロータスが2勝(アイルトン・セナ)している以外に存在しない。

だが、ベネトン系列のチームに所属していたらというタラレバがあったらどうだろうか?鈴木亜久里は1勝、片山右京は11勝、小林可夢偉は1勝をあげられたチームに所属していたことになる。

勝つどころかF1から日本人ドライバーがいなくなって久しいが、2020年現在は角田祐毅がレッドブル育成ドライバーとしてF2まで上がってきている。彼が無事ステップアップすればアルファタウリ、レッドブルへと昇格し、勝てるチームへ所属できる未来がかすかに感じられる。

まずは「勝てるチームへ行く」。これが出来る日本人ドライバーが今後育っていくことを期待したい。